宗教ではなく信仰

全ての宗教がそうだとは言いませんが、歴史を見れば、宗教が原因で分裂や紛争を引き起こした出来事があることは事実だと思います。以前にも書きましたが、自らの教えだけが正しい教えであって、他の教えは間違っているということになれば分裂や紛争になるのは当然だろうと思います。中には他の教えを邪教として、力づくで排除しようとしたりする宗教もあるようです。

この場合の宗教とは、厳密には宗教団体や宗教組織のことを言っていますが、我々日本人にとって宗教と言えば、そういう意味だろうと思います。だから宗教をやっているとか、宗教に入っているという言い方をすることもあると思います。

しかし本来、信仰というものは分裂や紛争をもたらすものではなく、和解と一致をもたらすものだと思います。神様に心を向けて生きることは人間として当然のことであり、それは特定の宗教団体の信者となることを意味していないと思います。また、それは自分の考えだけを正しいと主張し、他を排除することではなく、むしろ他を理解するものだと思います。

パウロという人が書いた手紙が新約聖書の中には多く収められていますが、その手紙をよく見てみると、パウロは「キリスト」を伝えるとは言っていますが、決して「キリスト教」を伝えるとは言っていません。彼はキリスト教という宗教を伝えたのではなく、キリストを伝えたのです。これも我々日本人にとっては「キリスト」と聞けば、「キリスト教」のことだと思ってしまいますが、厳密に言えば違います。「キリスト教」という宗教はパウロの教えに端を発しているのかもしれませんが、西欧で発展した世界3大宗教の一つであり、実は東西ローマ分裂後、東方で発展した東方キリスト教もあります。どちらが正しいキリスト教なのかという議論もあるようですが、いずれにしてもキリスト教、宗教という枠組みの中で考えられる宗教組織だと思います。

実は、「キリスト」とは人の名前ではなく、「救い主」という意味のギリシャ語です。つまり、一般的な日本語で言えば、「神様」と言うことだと思います。神様は私たちを救ってくださる。だから、神様に頼りましょうということをパウロは伝えたんだと思います。詳しくはそれぞれ聖書を読んでいただきたいと思いますが、それは必ずしもキリスト教徒になるということではありません。確かに日本語に訳された聖書を読めば、「キリスト」、「キリスト」と出て来るので、これは「キリスト教」だと思われてしまうのでしょう。そういうイメージがすでにあるので、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、「キリスト」という言葉をなるべく使わないで、「神様」という言葉を使おうと思っています。

私は神様のことをもっと伝えたいと思っています。もちろん、日本人は神様を知らない訳ではありません。だから、新しい神様を伝えようということではなく、もっと神様に心を向けて、その愛と恵みの中で、神様が本来意図された豊かな人生を送っていただきたいというのが私の願いです。キリスト教徒になって欲しいということではありません。新しい宗教を始めるつもりもありません。ただ、毎日の生活の中で、もっと神様に心を向け、聖書を開いていただくための情報を発信して行きたい。それが「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めた目的の1つなのです。