あなたの敵を愛しなさい

皆様の祈りと聖書の時間はいかがですか

毎日10分から(私は30分くらいです)神様に思いを向けて祈り、聖書を読む。このように短い時間でも、重要なことのために毎日時間を取ることで、人生は本当に意義あるものになります。皆様の祈りと聖書の時間は続いていますか。一つの参考として、今朝、私が読んだ聖書箇所と私の受けた確信について書いてみたいと思います。皆様の祈りと聖書の継続を励ますことができれば嬉しく思います。

今朝私が読んだ聖書

今朝も私はいつもの通り、「天の父なる神様。あなたを崇めます。どうぞ私に確信を与えて、御心に導いてください。」と祈って、聖書を読みました。今朝、私が読んだ箇所は、新約聖書ルカの福音書6章20~49節。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。』」と始まります。日本語の聖書には「イエス」と表記されていますが、現地の発音では「イェシュア」という発音で、救いという意味を表す、当時一般的な名前だったようです。この方は今から約2千年前にパレスチナ地方に実在した人物で、聖書はこの方は人となった神様であると記しています。

貧しい者が幸い?

この方が弟子たちに話された言葉です。「貧しい者は幸いです。」続いて、「いま飢えている者は幸いです。」「いま泣く者は幸いです。」と記されています。普通に考えるなら、「貧しい者」「飢えている者」「泣く者」は不幸だと思いますが、この人となった神様は、「そうではない。実は幸いなんだ。」と言われます。どういうことでしょうか。さらに「あなたがた富む者は哀れです。」「いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。」と言われます。いかがでしょうか。

本当は何が幸いなのか

確かに何をもって幸いとし、何をもって哀れとするのか、その基準は分からないものだと私は思います。今一度、本当の幸せとは何かということを考えてみてもよいのではないでしょうか。誰でも幸せになりたいと思って生きていると思います。でも、人生の大半を終えた時に、私の向かっている方向そのものが間違っていたとしたら、とても悔いの残る人生になってしまうかもしれません。これまでも書いてきましたように、自分の思いを中心にするのではなく、神様の思いを中心に生きるところに本当の幸いがあることを知っている今、そのようなコペルニクス的転回について、弟子たちを見つめながら、イエスは話されたのではないかと私は思いました。

あなたの敵を愛しなさい?

続いて弟子たちに語れます。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」

こんな生き方ってあるんですよ

凄い基準ですね。こんな話は他にはないと思います。だって敵は憎むものというのが普通じゃないでしょうか。でも、そうじゃない。敵は愛しなさいと言うんですから。そんなこと以前は考えたこともありませんでした。憎んで当然と思っていました。でも、結局その憎しみで私自身が悩み苦しんでいます。憎しみを拒絶しようじゃないか。もう憎しみなんかに負けるな。そんな生き方ってあるんですね。そうそう、それでこそ、いと高き方の子ども、つまり神様の子どもだと言っています。まったくコペルニクス的転回じゃないでしょうか。私はこの箇所を読みながら嬉しくなってきました。そして、これはクリスチャンかどうかということではなく、これこそ日本人の心じゃないでしょうか。私はそう思うんです。

これは宗教の教えではありません

私はこれらの言葉を文字通り守るべき宗教的な教えだとは思っていません。イエスは視点を変えるようにと弟子たちに迫られたのではないかと思います。もちろん、それも私の読み方で、それがこの箇所の正しい聖書の解釈だと言いたい訳ではありません。あくまで一つの参考として、私が感じたことを書いてみました。皆さんはどのように読まれますでしょうか。一人一人が神様からそれぞれ確信を与えられると思いますので、その確信を深めて行くことが大切だと思っています。

人それぞれに違った確信があって良いと思います

いかがでしょうか、皆様の聖書の読み方、確信の持ち方の少しは参考になりましたでしょうか。どうぞご自分の手で聖書を開いて読んでみてください。そして、自分とは違う確信を持つ方の話を聞いてみるのもとても参考になると思います。どうぞ自分と違う考えの人がいることを恐れないでください。生まれも、生い立ちも、環境も、文化も、伝統も違う中で私たちは生きているのですから、みなそれぞれ違った神様の導きがあって当然だと思います。違っていることは人類の豊かさだと思います。どうぞ自分の確信は自分の確信としてしっかりと持ちながら、自分とは違う考えにも耳を傾けてみましょう。それもまた自分の確信を深めるために益になると思います。

それぞれの確信に正解も不正解もありません

どうぞ皆様からのご意見、感想、質問などお待ちしております。それぞれが与えられる確信に正解も不正解もありません。お互いの確信を尊重しつつ、ぜひいろいろな確信を聞いてみたいと思っています。