映画「沈黙」をめぐって(3)「踏み絵」とは何か

遠藤周作原作の映画「沈黙」をめぐって、色々な意見があるようです。特にクリスチャンの方からは批判的な意見が多いようですが、それらの意見を読みながら、2つのことを考えさせられました。今日は「踏み絵」について。もう一つは来週書きたいと思います。

「踏み絵」について

以前にも書きましたが、「踏み絵」を踏まないことが唯一の信仰の表明だと考えるクリスチャンの方が多いようですが、それは問題だと思います。もちろん、信仰のゆえに踏まないという生き方も信仰の表明の一つとして尊重されるべきだと思いますが、それが全てではないと私は思います。

宗教と信仰を区別する

また、多くのクリスチャンの方は混同しているようですが、信仰の表明と言った時に、それはカトリックという(またプロテスタントを含めても良いと思いますが)西欧キリスト教という宗教の信者であることの表明なのか、それとも神様を中心にして生きるという信仰の表明なのかは区別して考える必要があると思います。

宗教の表明であっても、信仰の表明ではない

「踏み絵」に描かれた絵は、母子像であったり、十字架像であったり、それはカトリック的(拡大解釈しても西欧キリスト教的)な聖画だと思います。絵の上に足を乗せるということ自体、カトリック信者でなくても心地よいものではないと思いますが、それでも踏まないことでカトリック信者(西欧キリスト教信者)であることは表明できたとしても、必ずしもイエスへの信仰の表明にはならないと私は思います。

だいたい「踏み絵」を踏ませる必要はあったのか

しかし、考えてみれば、カトリック信者(西欧キリスト教信者)であるかどうかを見極めるのであれば、「踏み絵」を踏ませるまでもなく、「あなたはカトリック信者(西欧キリスト教信者)ですか」と聞けば、それで十分ではないのでしょうか。

現代の「踏み絵」

現代の日本にも形を変えた「踏み絵」の問題が残っていると私は思います。たとえばクリスチャンは仏壇に手を合わせてはいけないとか、仏式の葬儀に参列したり、焼香してはいけないとか、神社に参拝してはいけないということがあるなら、同じことではないかと私は思います。確かにそれはキリスト教ではないことは明らかですが、必ずしも信仰の問題ではないと私は思います。

信仰の証しなのか、躓きではないのか

これまで、多くのクリスチャンが「踏み絵」を踏まないこと、つまり仏壇に手を合わせないこと、仏式の葬儀に参列したり、焼香したりしないこと、神社には参拝しないことが、キリストへの信仰を証しすることになると考えて来たのかもしれません。もちろん、証しになった事もあったでしょう。しかし、多くの場合は躓きになっているのではないかと私は思います。(ホームページのアンケート結果もご覧ください。)

証しの形は様々

クリスチャンにとって、それが唯一の証しの形だと考えることが問題ではないかと私は思っています。それも証しの一つだとは思いますが、それ以外にも証しの形は色々あると思います。それは、それぞれが確信に基づいて決めることであって、形を一律に決めたり、他人に押し付けたりすることではないと思います。

神様を中心とした生き方

私は「踏み絵」を踏まないとか、仏壇に手を合わさないとか、仏式の葬儀に参列したり、焼香したりしないとか、神社に参拝しないという宗教的な形ではなく、自己中心ではない、神様の思いや願いを中心にして生きる生き方こそが信仰の証しだと考えています。それぞれの良心に語り掛けられる神様の声に従って生きるということを大切にしていただきたいと思っています。

いかがでしたか

もう一つの事はもっと重大な問題を含んでいます。そのことは来週書きたいと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の文化、伝統、習慣、信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 1章6~17節

ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。

バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。

キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

ヨセフの系図の続き

メシヤニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人)のアーノルド・フルクテンバウム博士の本を読むと、マタイの福音書にヨセフの系図が記された目的は、イエスがヨセフの実の子であれば、イスラエルの王になることはできなかったということを示すためだったと言っています。どういうことでしょうか。

エコニヤの子孫はイスラエルの王になれない

イスラエルの王はダビデの子孫から生まれることが旧約聖書に預言されています。この系図にはダビデの名前があります。しかし、この系図にはエコニヤという名前もあります。旧約聖書(エレミヤ書22:24~30)にはエコニヤについて、「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ」とあります。

ヨセフの子孫には王位継承権はない

つまり、エコニヤ直系の子孫であるヨセフには、またヨセフの子孫にもダビデの王位を継承する権利はないことを、この系図は示していることになります。もし、イエスがヨセフの実の子であれば、ダビデの王位を継承する権利はないということを示すことが、この系図の目的であったとフルクテンバウム博士は言っています。

処女降誕

そうすると、次の章に記されているマリヤの処女降誕こそが、エコニヤ問題の解決だということになります。イエスは処女マリヤより生まれたというのがマタイのメッセージだとフルクテンバウム博士は言っています。

大切なことは神様を中心にして生きること

いかがでしょうか。私たち日本人にはなかなかピンと来る話ではありませんが、旧約聖書の民であるユダヤ人にとっては、大変重要なことだったのだろうと思います。まさに目に見えない神様が今も生きて働いておられるということを示す内容なのだろうと思います。ただ、信仰とはこのようなことを詳しく知っているかどうかということではないと私は思います。大切なことは神様は確かに生きて働いておられるという信仰だと思います。その神様の思い、願いを中心にして生きることが大切なことだと思います。

いかがでしたでしょうか

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