【人間関係】逆境をチャンスに変えろ

逆境やピンチは誰にでもあるでしょう。成功している人は逆境やピンチをバネにしてステップアップしています。そのために必要なのは逆境の捉え方でしょう。逆境、ピンチをチャンスに変える考え方、捉え方について、「『職場の人間関係・改善術』苦しみ続けた私に効果があった24の方法」からご紹介いたします。

問題がもたらすプラスの面に意識を向ける

問題の深刻度は、あなたの考え方・捉え方で変わります。例えば、問題を「チャンスがきた」と考えるか、「まずい、どうしよう」と考えるかの違いです。また、以下のようにもう一歩踏み込んで考えることで、より大きなチャンスに変えることが出来ます。

  • この出来事は、自分に何を教えてくれているのだろうか?
  • この出来事から、何を読み解き、チャンスや成長につなげられるだろうか?など

ポイントは問いかけです。脳は質問すると答えを見つけるまで考え続ける性質を持っているため、脳に問いかけることで、問題がもたらすプラスの面に意識を向け、手にすることができるようになります。

  • この出来事の良い点があるとしたら何か?
  • この出来事は自分に何を教えてくれているだろうか?
  • この出来事にはどんな意味があるのだろうか?
  • この出来事を通して何を得たか?(何を学んだか?何に気づいたか?)
  • この出来事にに感謝できる点があるとしたらは何か?
  • 出来事をきっかけにして、得たことがあるなら何か?など

上記の質問を見ると分かりますが、問題を出来事と言い換えています。問題と考えるか、出来事と考えるかで、あなたの中でイメージ、印象、感情が変わるからです。そして脳へ以下の様な質問を問いかけることも効果的です。できごとのプラスの面へ意識を向けやすくする質問です(ここでは、わざと問題という言葉を使っています)。

  • 本当にこれは大きな問題か?
  • 過去に乗り越えた同じような問題はなかったか?
  • これ以上に辛い問題があるとしたら何か?など(サイトからの引用は以上です。)
耐えられない試練はない

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(新約聖書コリント人への手紙第一10章13節)という言葉が聖書にはあります。全ての出来事は神様によってコントロールされていると受け止めることが神様を中心にすることであり、困難に立ち向かう力を与えます。

困難によって人格は練られる

私自身これまでの人生を振り返ると、困難、試練、問題を通して成長させられたと思います。困難が好きな人はいないと思いますが、神様は私たちを成長させるために適度な困難を与えることがあるのでしょう。もういくつか聖書の中に記された言葉を紹介します。これらは教えではなく、体験だと思います。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(旧約聖書詩篇119篇71節)「あなたのおきて」とは神様の法則、真理、人生ということでしょう。)

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(新約聖書ヤコブの手紙1章12節)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(新約聖書ローマ人への手紙5章3~5節)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、私たち日本人の信仰のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 23章13~22節

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国(みくに)をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。

わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。

また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらが大切なのか。だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。

また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座(みざ)とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

宗教ではなく、神様

大切なことは宗教ではなく、神様を中心にして生きることです。神様を求める人に、神様ではなく、宗教を提供する律法学者、パリサイ人がいかにわざわいであるか、ここでイエスは言っているのだと思います。

人間が作った宗教

人間が作った宗教の教えを守ることではなく、神様の語り掛けに良心の耳を傾けること。その神様の思いを中心にして生きること。神様が私たちに求めていることはそのような生き方だと思います。それがイエスの教えであり、日本人が太古の昔から大切にして来た生き方だと思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。