私たちの自信

私たちは何かが出来るということで、自分に自信を持つというのは普通のことかもしれません。しかし、自分に何かが出来ると思うことは、出来ない人を見下す高慢になる危険性も孕んでいます。そこで調子に乗らない様に気を付けようということになるんだと思いますが、私はちょっと違う考え方をしています。

何かが自分に出来ることは決して悪いことではありません。むしろ、良いことだと思います。問題はそこに自分の拠り所というか、存在価値というか、自信の根拠を置いてしまうところにあると思います。私は自分の存在価値を自分には何かが出来るというところには置かないように気を付けています。私にはもちろん出来ることもあると思います。人より優れた得意なこともあるだろうと思います。(あって欲しいですよね。)でも劣ったところもあります。当たり前ですが完全ではありません。そんな不完全な自分に、自分の存在の拠り所を置けば、私は出来ると思っては有頂天になり、出来ないと思っては落胆するということになります。

私はそんな不完全な自分に、自分の存在の拠り所を置くのではなく、良くても悪くても、出来ることもあるけど、ダメなところもある、そんな私をまるごと、それでも愛して、受け入れてくれている神様に自分の存在の拠り所を置くようにしています。そうすれば、失敗した時、弱い自分と対面した時、自分の不完全さを知った時でも、落胆する必要がありません。確かに私はこのような者だ。でも、神様の私に対する愛はまったく変わらない。だからこそ、私は自分の弱さや不完全さとしっかりと向き合うことができると思います。また、何かがうまく出来た時、人から褒められたりした時、自分でもこの点においては人より優れていると受け止めても、それは必ずしも高慢につながらないと思います。むしろ、これは私の長所だと〝謙虚に″受け止めるべきだと思います。それは神様が自分に与えてくれたものだから、私は自分を誇ったり、高慢になったりするのではなく、神様に感謝し、神様のために、人の益のために、その優れた点を使うべきだと思っています。

パウロという人がこのように書いた手紙が新約聖書の中に収められています。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」「聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」

ちょっとややこしいですが、こういうことだと思います。私たちは不完全な者なのですが、この不完全な者を、それでも神様は正しい者として受け入れてくださるのだと信じるなら、神様は、その信仰のゆえに私たちを正しいと認めてくださるというのがパウロの考えだということですね。そういう神様を信じて、不完全な自分ですが、それでも神様はダメだと見捨てたりしていない。そういう神様を見上げながら、今日も立ち上がって、最善を尽くして歩んだら、それで良いのだと思っています。