「生きる意味」ちょっと哲学的なアプローチ

「生きる意味」について考える時、やっぱり理屈で考えるというか、哲学的に考える方もいらっしゃると思います。「人生の意味について僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」という記事からご紹介したいと思います。

この記事の著者は「生きる意味」「人生の目的」というテーマについて、真面目に取り組み、哲学的な難しい話を分かりやすい言葉で書いていらっしゃいます。結論だけご紹介したいと思います。

やや気恥ずかしい結論のようなもの

結局、「人生の意味」は、僕たちがどこで問いをやめるかということにかかっている。

例えば、ある兵士が、祖国のために命を捨てる覚悟で戦死する。そのとき、彼の人生は、「祖国を守るため」という意味をもって完結し、それ以上の問いは停止される。「祖国を守るのは何のためか?そんなことに意味があるのか?」とは、もはや問われないのである。

目的を問うことをやめる

僕たちの時間は有限だから、それ以上、問うことをやめた時点での答えが、人生の意味になり、具体的な行動になる。

僕たちは、目的がなければ行動を起こせない。しかしその一方で、目的を問うのをどこかでやめなければ、行動を起こせないのである。

そして、僕たちは何もしないでじっとしていることができないから、ただ生きているだけで、意味を生み出してしまうのだ。(記事からの引用はここまで。)

目的と行動の関係

いつまでも「人生の意味」を問うていては行動することができないとこの方はおっしゃっているようです。確かにどこかで結論を出して行動することは大切だと思います。そして、行動してみて、また考えることもあると思います。

導き

私はそれを「導き」と考えています。これまでもこのブログでお伝えして来ましたように、「生きる意味」「人生の目的」は私たち人間の中にはなく、私たちを造られた神様の中にあると私は思っています。だから自分の頭の中だけで考えていると、いつまで経っても分からず、行動を始めることができなくなってしまうと思います。

全てが分かる訳ではない

それは神様の中にあるものであり、一気に全て分かるのではなく、一つ一つ行動する中で「導かれ」、分かって来るものではないかと思っています。今日までの導き、これまでの経験、今置かれている境遇。これらは全て偶然ではなく、神様に導かれて来た結果であると私は思います。

神様から与えられる確信

それらをよくよく吟味する中で、神様の自分に対する計画、使命、願い、思いというものに気づかされるのではないでしょうか。もちろん、間違うこともあると思います。しかし、神様は私たちの良心の内に、確信という形でご自身の思いを与えてくださるのではないかと私は思っています。それぞれが確信するところに従って前進してみる。また、神様から修正されることもあるかもしれません。また、それに従う。そういうことではないでしょうか。

大切なことは宗教ではありません

それは何かの宗教を信じることではありません。目には見えませんが、永遠から永遠まで全てを支配しておられる神様とあなたとの個人的な関係ではないかと思います。それが人間の生きる意味ではないでしょうか。

神様を中心にして生きる

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読むことをお勧めいたします。

新約聖書 マタイの福音書 2章13~18節

彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。

その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
「ラマで声がする。
泣き、そして嘆き叫ぶ声。
ラケルがその子らのために泣いている。
ラケルは慰められることを拒んだ。
子らがもういないからだ。」

ユダヤ人に向けてメシヤであることを示す

博士たちが帰ると、ヨセフは夢でエジプトへ逃げるようにという主の使いの言葉を聞き、夜のうちに出発したとあります。これは「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事の成就だとあります。これもまたユダヤ人でなければピンと来ないことではないかと思います。メシヤニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人)の聖書学者であるアーノルド・フルクテンバウム博士は、これはイスラエル民族がエジプトからモーセによって導きだされた出エジプトという歴史上の出来事を指しており、その歴史上の出来事はメシヤのことを意味する型であったと指摘しています。いずれにしても、この幼子が旧約聖書とイスラエル民族が指し示すメシヤであることを示しているということだと思います。

羊飼いたちと博士たちとの時間差

博士たちから突き止めておいた時間から、その幼子は2歳以下であるとヘロデは割り出したことが記されています。羊飼いたちと博士たちとの間には数年の時間差があったことが裏付けられるようです。

エレミヤ書の記述

エレミヤもまた旧約の預言者です。旧約の時代にイスラエルは滅ぼされ、子供達は捕囚の民として連れ去られました。ラケルとは子供達を奪われたユダヤ人の母を表しています。子供達はラマの町を通って連れ去られたのです。その母親の嘆きが重ねられていますが、これもまたユダヤ人でなければピンと来ない話であろうと思います。ユダヤ人に向けて、この幼子がメシヤであることを、旧約聖書の言葉から示しているのだと思います。

いかがでしたか

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