【人生・信仰】霧は晴れた・出会い・導き

先週のブログ「天才の人生と凡人の恵み」に、なんと5人の方がメッセージを寄せてくださいました。嬉しいことです。最初の方は朝の5時ちょっと過ぎ、私がフェイスブックでブログをシェアした直後に、歌手の小坂忠さんがテレビ出演された時の動画のリンクまでつけてメッセージを送ってくださいました。朝早くから、ここまでしてくださる方がいらっしゃるということに感激します。(その動画のリンクはこちらです。「小坂忠『勝利者』誰も知らない泣ける歌」

小坂忠「勝利者」

ロック歌手としてデビューした小坂忠さんは、エイプリルフールというグループ解散後、クリスチャンとなり、讃美歌、ゴスペルをロックにして歌って、全国をまわったそうですが、あまり評価されなかったと言います。仲間がどんどん活躍する中で、小坂さんは不安と寂しさを感じ、これでいいのかと思ったそうです。

ロサンゼルスオリンピックのアンデルセン選手

そんな時、小坂さんはロサンゼルスオリンピックの女子マラソンで、フラフラになりながらもゴールを目指すアンデルセン選手の姿を見ます。そして、そうだ!メダルを取るだけが勝利者ではないと思ったそうです。たとえ売れなくても、たったひとりでもいい、誰かに力を与えることができたら、それは勝利者ではないか。そして「勝利者」という歌ができたそうです。

本当の勝利者とは誰か

確かに私の活動、著書も、ブログも、タピ大などの講演活動も、仮に大きな成果がないように見えたとしても、(小坂忠さんで言えば、売れなくてもということでしょう。オリンピックで言えば、メダルを取れなくてもということでしょう。)たったひとりでも、神様に思いを向け、その人生に喜びが与えられ、問題に解決が与えられる人がいたとしたら、それは勝利、成功ではないか。確かにそうだったと私はもう一度そこに立ち帰りました。

出会い

今回、ブログを書いて、すぐに5人の方からメッセージをいただいて、こうやって思いを巡らす時を持つことができ、本当に良かったと思います。こういう方々に囲まれて、今の私があるんだなあということを深く思わされました。ありがたいことです。感謝なことです。ある方の著書のあとがきにこのような文章がありました。「考えれば考えるほど、人生は偶然の出会いの連続なのだと実感します。人との出会い、出来事との出会い、そして本や言葉との出会い。どんな出会いがあるかによって、人生は大きく変わっていきます。」

それは偶然ではなく、導き

思い返してみると、私は職場の同僚に私の神学校時代のテキストをお貸しすることになり、お貸しする前に、どんなことが書いてあったか、もう一度確認しておかなければ無責任だと思って読み返しました。それは「日本宣教論」というテキストでしたが、そこには日本人と日本文化がどれほど素晴らしいものであるかということが記されていました。読み返している内に、日本人である私の心に喜びが沸き上がってくるのを感じました。それが今の私の活動の始まりになるとは予想もしていませんでした。それは偶然ではなく、神様の導きだったと私は信じています。

これでいいのだ!

あれから3年、この活動も4年目に入りましたが、振り返ってみると、この間にも多くの出会いが与えられました。同志も与えられました。この夏、沖縄を案内してくださる方も与えられました。僧侶の友人も与えられました。以前だったら考えられません。だから、これからも「日本」、「イスラエル」、「聖書」。この三つはひとつなんだというメッセージを伝えていこうと思います。たったひとりでも、「そうだ!」と思う人がいれば、それでいい。それで十分。すべては神様の導きの中にあるのだから。私は再びそこに立つことができました。「これでいいのだ!」バカボンのパパみたいですけれど・・・

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、人生に思いを巡らせるために聖書を読んでみてください。そこには古くて新しい発見があります。

新約聖書 使徒行伝 1章12~26節

それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。

(彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)

詩篇に、『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである。

そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。

そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。

それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。

百二十名ほどの弟子たち

彼らはイエスが天に上られるのを見送った後、エルサレムで一緒にいたようですが、それはペテロ、ヨハネ、ヤコブといったイエスの十二弟子、彼らは特に使徒と呼ばれていますが、彼らを中心に百二十名にもなっていたことが分かります。そして、十二使徒のひとりであったユダはイエスを裏切り、自らの命を絶っていましたので、それを補う使徒を選んだことが記されています。マッテヤも三年半の間、イエスと寝食を共にし、イエスの教えを受けた一人でした。この一団がイエスの教えを継承する人たちでした。そして、彼らはイエスの復活の証人でもあったと記されています。彼らはイエスの復活を現実として受け入れた人々でもあったということでしょう。つまり、それは単なる教えに留まらず、目には見えませんが、死人をよみがえらせることもできる神は生きて働いておられるということを受け入れた人々であり、人間的な思いではなく、その神を中心にして生きることが私たち人間の本当の生き方であることを証言する人々でもあったということだと思います。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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