さばいてはいけません

最も大切なことは神様の視点を持つこと

「日本人の信仰と聖書について考える会」が最も大切なこととして皆様にお伝えしたいことは、神様の視点で自分も世界も見ることができるようにコペルニクス的転回をしていただきたいということです。そうすれば、今まで見えなかった物事の真相が見えるようになり、幸いだと思っていたことが、実は虚しいものだと気づいたり、悲しいと思っていたことが、実は幸いに導くものであることが分かったりして、私の人生は本当にこれで良いという確信を持つことができるようになると思います。

毎日の祈りと聖書の習慣によってご自分のものにしてください

人となった神様であるイエスという方はそのことを教え、また、それを体験した人たちもそのことについて書いた文書が、聖書と呼ばれる一連の古文書の中に収められています。私自身もそのことを頭で理解するだけでなく、実際に体験して確信したので、皆様にこうしてお伝えしています。しかも、これは何かの宗教ではなく、日本人が太古の昔から大切にしてきた信仰であり、毎日神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことによってご自分の信仰とすることができるということを勧めています。

皆様の参考と励ましのために

さて、今日も昨日に引き続いて、新約聖書ルカの福音書6章37~42節を読んで、私が感じたことをお伝えして、皆様の祈りと聖書の時間の継続を励ましたいと思います。昨日もお断りいたしましたが、決してこれがこの聖書箇所の正しい解釈だという考え方ではなく、私がどのように読んでいるのかをお伝えすることによって、皆様がご自分の確信を持つための参考にしていただきたいということです。同じ確信にならなくて良いのです。皆様が神様の視点を持つための参考になれば良いのです。

人となった神様が弟子たちに語った言葉

この箇所は昨日に続いて、人となった神様であるイエスという人物が弟子たちに語った言葉です。このように続いています。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

周りの不満を言う前に、自分自身を振り返る

確かにいつも人に優しく接する人は、人からも優しく接してもらえるだろうと思います。人に厳しくすれば、人からもそれを要求されるようになるでしょうね。これまでの自分の人生を振り返ってみると、本当に良い人たちに囲まれて来たという人がいます。たぶん、その人が周りの人にそのように接してきたからだと思います。同じ環境にいながら、ある人は周りに不満ばかり持っています。結局、その人自身が周りにそのようにしているか、実際にしていないまでも、心の中ではそのように思っていたからだと思います。何で私ばかりこんな待遇を受けるのかと言う前に、自分は周りにどのように接しているのかを振り返った方が良いかもしれませんね。ここでも視点の転回が求められているんだと私は思います。

人に対する価値観で自分も生きている

また、結局はどのような価値観を持って生きているのかということと、それは関係していると思います。そして、それは周りの人たちをどのような価値観で見ているかということをチェックすれば分かるということだと思います。その価値観で自分自身に対しても判断しているんだと思います。人のことをとやかく言わないこと。確かに間違いはあるでしょう。でも赦すこと。もらうことばかり期待する人生ではなく、与える人生を送ること。そのような人は人からとやかく言われず、確かに足りない部分があったとしても赦され、結局、与える以上に与えられる人生になるのでしょう。自己中心から神中心にパライダイムをシフトすることが求められていると私は思います。

盲人が盲人の手引きをしているようだ

続いてこのように記されています。イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁(はり)には気がつかないのですか。自分の目にある梁(はり)が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁(はり)を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」

丸太んぼが目に入っているんじゃ見えないですよねえ

梁(はり)というのは柱の上に横に渡し、屋根を支える材木のことです。自分の目の中には梁(はり)があるのに気づかないで、人の目の中のちりのことをとやかく言っている。神様の視点から見た時に、これが私たちの姿だと気づかなければならないですよね。見えていないのに見えていると思っている私たち人間の視点から、見えていないということを客観的に見る神様の視点にシフトしなければならないと思います。しかも、梁ですよ、梁。ちょっとごみが入って見えにくいということではなく、丸太んぼが入っているって言うんですから、何も見えてないってことですよね。

祈りたくなってきました

「天の父なる神様。どうぞ見えていないということに気づかせてください。そして見えるように神様の視点を与えてください。」 そのように私は祈りたくなりましたが、皆様はいかがでしょうか。どうぞ神様に心を向け、神様の視点が与えられるようにお祈りください。悟りというのであれば、これは悟りだと思います。救いというのであれば、これが救いだと私は思います。どうぞ祈りと聖書の時間を毎日お続けください。私たちがお勧めしているのはそれだけです。洗礼を受けてクリスチャンになるとか、どこかの宗教団体の会員になるとか、そういうことは一切お勧めしておりません。これは日本人が太古の昔から大切にしてきた信仰だと私は思っています。

 

 

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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