宗教を超越するもの。日本人の心とは?

お参りする女性

日本人の寛容な宗教観はどこから来るのか

水曜日のテーマは「キリスト教、宗教」です。昨日、禅宗の僧侶である松山大耕さんの動画をご紹介させていただきましたが、その後、彼が言っていた日本人の寛容な宗教観について思いをめぐらしていました。松山さんはどんな宗教に対しても敬意を払う日本人の寛容さが世界の宗教対立の解決になると確信していると言っておられました。それと重なる部分もありますが、私はまたちょっと違う角度から私の考えを書いてみたいと思います。

日本人にとっては宗教より大事なもの

私は、日本人が宗教に対して寛容なのは、宗教よりも大事なものがあると考えているからではないかと思っています。それは日本人の信仰心と言っても良いと思いますし、日本人の心と言っても良いかもしれません。また、これまで私のブログでは日本人の良識、常識という言葉でも説明して来ました。それは何か特定の宗教よりも大切だと日本人は考えていると私は思っています。

山本七平氏は「日本教」と言いましたが

それは山本七平氏が「日本教」と呼んだ内容にも重なります。山本七平氏は「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」を「日本教」と呼びました。「日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは『正気の沙汰ではない』という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。」(ウィキペディアより)

それは宗教とは思っていない

しかし、それは宗教ではないと日本人は思っているのではないでしょうか。もし、それが「日本教」と呼ぶべき宗教であり、他の宗教と対立する概念であるなら、他の宗教に対する日本人の寛容な態度は説明がつかないと思います。やはりそれは、日本人の信仰、日本人の心、日本人の良識、常識と言った方がよいのではないかと私は思っています。

宗教とは違う次元にある日本人の心

しかし、二人とも共通して感じていらっしゃることがあるように思います。それは日本人には一般的な宗教とは違う次元において、何か共通した心というか、信仰心、良識、常識といったものがあるということだと思います。それに抵触しない範囲においては、日本人はどんな宗教にも寛容だと思います。しかし、それに抵触するような宗教は日本人でも受け入れられないと思います。そうやって、本来の仏陀の教えを大切にしながらも、松山氏の言う「日本の仏教」も作られて来たのではないでしょうか。

全ての宗教を超越する神様

そのような全ての宗教を超越し、その中に取り込んでしまう日本人の心はどこから来たものなのでしょうか。私は古代日本におけるイスラエル系渡来人の信仰、聖書の信仰から来ていると思っています。それは何か特定の宗教の教えではありません。天地を造られ、全てを超越する神様の思い、神様の正しさ、神様の願いを中心とした生活をすること。それが日本人の心の根幹だと思います。それでは今日も聖書の続きを呼んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 ルカの福音書19章45~48節

宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。

商売の道具になってしまった宗教

いよいよイエスと弟子たちの一行は群衆と共にイスラエルの首都エルサレムにやって来ました。宮とはユダヤ教の総本山である大きな神殿です。イエスはそこで商売している人たちを追い出したとあります。神殿には、巡礼に来た人々に、いけにえのための鳩や羊を売ったり、神殿に捧げるお金を両替したりして商売をしている人たちがたくさんいたのだと思います。このように宗教は商売の道具になってしまっていたということだと思います。

イエスの教えは記録されていない

イエスは毎日、宮で教えておられたとあります。その内容は記録されていません。記録するほど難しい内容ではなかったということではないかと私は思います。これまでも何度も教えて来たこと。神様を中心とした生活をしなさい。宗教をやることではない。そう教えたのではないでしょうか。

イエスが目障りだった人々

祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたとあります。どうして、当たり前のこと、正しい事を教えるイエスを殺さなければならないのでしょうか。神様ではなく、自分が中心となっている人にとっては、イエスの存在は目障りだったのかもしれません。でも、民衆はみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたとあります。

神様を中心にすること

何かの宗教の教えを守ることではありません。日本人としての良識、常識の中に、神様の思い、神様の願いは受け継がれていると私は思います。ポイントはそれを中心にするのか、それとも自分の思いを中心にするのかということではないでしょうか。難しい宗教の話ではありません。子供でも分かることだと思います。ただ、その神様の思いを中心にすること。そこに生きる目的、人間の存在意義、あらゆる問題の解決、そして世界平和の鍵があると私は思っています。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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