日本人の「おもてなし」の心

日本

今日は「日本と日本人の文化」から「もてなしの心」という記事をご紹介いたします。

もてなしの心

宝島社から出版されている「世界が感嘆する日本人」という本に、震災を受けて報じられた海外メディアによって海外の人たちが私たちにどのような感情を抱いたかについて、詳細に書かれています。その中で、オランダ人ボランティアの心境を総括した言葉が書かれていた箇所がありました。

被災者を助けるために現場に行ったのに、その惨状は目に余りすぎて、私たちの方がすっかり打ちひしがれてしまった。それなのに、逆に被災者の方々から励ましの言葉をかけてもらったり、手袋を貸してもらったり、絆創膏を貼ってもらったり・・・。日本人というのは、どこまで忍耐強く、そして礼儀正しいのだろう。だからこそ絶対に、彼らはまた前進していくだろう!」(以上原文のまま)

オランダ人が持ったこの感想は、私たちでも感動すると思います。

しかし私たちには、潜在的に、自分より他人を大切にする「おもてなし」の文化が根付いているので、ごく自然な行動なのです。

私たちは誰かの労をねぎらう時に、必ず「御苦労さまでした」と言いますが、これも相手を労う、イコール「自分より相手のことを考える」という文化の現れです。これは私たちが持つ固有の文化で、これに該当する表現はヨーロッパ言語にはありません。

ですから、オランダ人が私たちの人を気遣う姿に感激したのも、日本固有の文化を知らないのであれば、当然のことだったのでしょう。(サイトからの引用は以上です。)

それは聖書にも見られる価値観

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(新約聖書 ローマ人への手紙12章10節)

「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」(新約聖書 ローマ人への手紙12章13節)

自分よりも相手を優先し、もてなすという精神は聖書の多くの箇所にも見ることができると思います。もしそれが諸外国の文化には見られないということであれば、日本人とユダヤ人に共通した特質だと言えるのかもしれません。

日本人の尊厳

ただ、このオランダ人は、震災で全てを失ったにも関わらず心遣いを失わない日本人に驚嘆したのではないでしょうか。それは、たとえどんなに悲惨な状況に置かれることがあったとしても、日本人は尊厳というものを大切にするということではないかと私は思います。

太古の昔から受け継がれた日本人の気質

それは頑張ってそうしているという以上のことで、太古の昔から育まれて来た日本人の気質の中に引き継がれているのではないでしょうか。それは神様の民としての尊厳ではないかと私は思っています。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 13章1~12節

さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。

そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。

島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。

ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

見よ。主の御手(みて)が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。

この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。

イエスのことを伝え始める

バルナバとサウロ(別名をパウロ)はアンテオケの教会から送り出され、様々な地方でイエスのことを伝え始めたことが書かれています。地方総督とはローマ人だったと思いますが、バルナバとサウロの話を聞きたいと思っていたとありますので、イエスについての噂はすでに伝わっていたのかもしれません。

正しい生き方を邪魔する者

ところが、総督を信仰の道から遠ざけようとする者がいました。自分の欲や願いを中心にした生き方ではなく、神様を中心にして正しい生き方をしようとするのを邪魔するのは良くないことですね。「あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、正義の敵」と言われています。

神様を中心にして生きる

私たちの周りにも正しく生きようとすることを邪魔するものがあるでしょうか。正しく生きることは正しいことだと思います。正しく生きることの祝福と報いは大いにあると思います。神様も生きて働いて、正しい生き方を大いに祝福してくださると思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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