秦氏はメシアニック・ジューだった

イエスの直接の弟子たちの末裔

A.D.3世紀末から日本に渡来し始めた秦一族はイエスの直接の弟子たちの末裔だったのではないかとこのブログではお伝えしてきました。ただ、イエスの直接の弟子たちがエルサレムを出発したのがA.D.70だったとすれば、それから200年以上の年月が経過しており、日本に来るまでにかなり時間がかかっているという印象を私は持っていました。

メシアニック・ジューの歴史を重ねると

ところが、最近アーノルド・フルクテンバウム博士というメシアニック・ジュー(イエスをメシヤと受け入れるユダヤ人)の方が書いた本を読み、この点について理解できましたので、今日は簡単にご紹介したいと思います。

A.D.33~66

イエスの十字架の死後、ユダヤ教指導者の敵意はイエスの弟子たちに向けられるようになり、メシアニック・ジュー(イエスの弟子たちを中心に多くのユダヤ人がイエスをメシヤと受け入れ、彼らのグループに加わった。聖書によると、その数は1万人を超えていたと考えられる。)に対する迫害が起こった。それでもメシアニック・ジューたちはユダヤ人社会の中で暮らし、神殿やシナゴーグ(会堂)で礼拝し、ユダヤ教の宗教的習慣を守った。

A.D.66~70

この時期、ユダヤ人はローマに反乱を企て、エルサレムはローマ軍に包囲されていた。エルサレム市内は熱心党が支配権を握り、人々を戦いに駆り立てていたが、メシアニック・ジューたちは、エルサレムが敵軍に包囲されるのを見たら逃げるようにとかつてイエスに言われていたので、武力で対抗することを拒否した。

A.D.66にローマ軍が一時的にエルサレムの包囲を解くと、メシアニック・ジューはヨルダン川の東側にあるペラという町に逃れた。その後、A.D.70にエルサレムは神殿もろともローマ軍によって滅ぼされた。

A.D.70~132

メシアニック・ジューたちはエルサレムに戻り、そこで集会を開いていた。ヤコブとシモンの後も、13代にわたってエルサレム会衆の指導者が立てられたことが今日まで伝えられている。

A.D.132~135

この時期、バル・コクバの指揮下でユダヤ人はローマ帝国に対して2度目の反乱を行った。当初、メシアニック・ジューはユダヤ人と共に戦いに加わった。しかし、反乱が進む中で、反乱軍の霊的指導者のラビ・アキバがバル・コクバをユダヤ人のメシヤだと宣言した。これにより、イエスをメシヤと受け入れるメシアニック・ジューは反乱から手を引かざるを得なくなった。

A.D.135~1800

この時代のメシアニック・ジューの歴史は、次の2つの理由で詳しいことがほとんど分かっていない。①心からイェシュア(イエス)を信じて信者になったユダヤ人と強制的にクリスチャンにさせられたユダヤ人をどう見極めるのか。②異邦人文化を持つキリスト教会とは一線を画すというそれまでのメシアニック・ジューの方針は、キリスト教会に同化しようという方針に転換した。この時代にイエスを受け入れたユダヤ人が第一にすることは、ユダヤ的なものをすべて捨て去ることであった。こうした問題にも関わらず、イェシュアをメシヤと信じるユダヤ人信者の系譜は途切れることなく続いた。

秦氏と名乗る人たち

今日は簡単に要約して紹介しましたが、このような歴史的な流れの中で、異邦人に同化する人々もいれば、ユダヤ性を残したい人々もいて、年代的にも2世紀、3世紀の時代を迎え、やがてその中のあるグループは東へと向かい、日本に到達する者たちもあったと考えることができるように思います。それが秦氏と呼ばれる人たちだったのではないでしょうか。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 17章16~21節

さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。

エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。

そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」

アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。

ここでもパウロはまずユダヤ人に話しました

ギリシヤ神話の神々の像がアテネの町には何千もあったのだろうと思います。アテネの人々はこのような像を神様だと考えているのかと思うとパウロは心に憤りを感じたのでしょうか。ここでもパウロはまずユダヤ人に話しました。それから広場でギリシヤ人にも話しました。

哲学

哲学では神について、人間について、ああでもない、こうでもないと議論するのだと思います。この時のギリシヤ人は単なる知的好奇心だったようですが、それでもパウロは神様を中心にして生きる生き方について話したのだろうと思います。

理屈で考える西欧文化

私たち日本人にとって、またユダヤ人にとってもそうなのかもしれませんが、どう生きるかということは理屈ではないところがあるように思います。それに対して、ギリシヤ人、西欧人は理屈で考える傾向があると思います。西欧人にとってはそういうものなのだろうと思います。同じように西欧キリスト教は信仰を理屈で考える傾向があると思いますが、私たち日本人までそのように考えなければいけないということはないと私は思います。

日本人にとっては理屈ではありません

神様を中心として生きる。それは私たち日本人にとっては理屈ではないと思います。理路整然と説明できるかどうかということではなく、生きることだと私は思います。それが日本人の生き方だと私は思います。