悩み相談「人は何のために生きるのか」

孤独な女性
悩み相談

ネットを見ていると、「人は何のために生きるのか」といった悩み相談を多く目にします。生きる喜びを実感できなければ、そう考えるのは無理もないと思います。こんな相談がありました。少し長いですが全文をご紹介いたします。

何のために生きているのですか?

私はなんの為に生きているのか全くわかりません。ただ単に生まれたから生きているだけ。自殺する勇気がないから生きているだけという感じです。

普通に幼小中高大と通いました、学生生活も至って普通で特に勉強ができるわけでも、できないわけでもなく、いじめられた事がなければいじめた事もありません。これといって打ち込めるものもないしお金の為にバイトしてました。卒業後は人並みに就職して5年間仕事をまじめに無遅刻無欠勤で有給すらとらず働いてきました。

勉強が楽しいとか仕事が楽しいなんて一度たりとも思ったことはありません。趣味も特技もありません。何かしたいとか、どこかに行きたいとかもありません。せめて何か一つ趣味を見つけたいと思いジムに通ったり様々な教室に通いましたがやはり何をしても楽しくないので趣味になりません。

友達と呼べる人もごくわずかでその数少ない友人ですら学校卒業後はほとんど会う事もなく、買い物なんて10年近く1人きり。会社も小さく従業員は私1人、同僚はおろか先輩、後輩もいません。ひたすら毎日同じ仕事を無難にこなしているだけ、大きなミスをする事もなければ達成感もありません。

恋人はいますが世間の人がよく言うこの人の為なら死ねるとか何よりも大事とかいなくなったら困るとかそんな熱い感情がわきません。とにかく『感情』というものが人より薄い気がします。旅行に行って楽しい~!とか子供を見てかわいい~!とか漫才を見ておもしろ~い!とかそういうプラスの感情がないのです。

ため息がとまりません。人生を楽しめません。本気で人間(家族恋人友人)を愛せません(というか愛するという感情がわからない)こんなに無気力なのに落ちこぼれた人生は送る勇気がもてません(ニートとかホームレスとか)ましてや死ぬ勇気なんてもっとありません。

私はこのまま数年後に結婚し子供を生んで歳をとっていく無難な人生を送り続けるのでしょうか?(自分の子ですら愛する自信がありませんが)それともいつか大きな事故にあったり病気にかかったりと一波乱あるのでしょうか?

皆さんは毎日何を考え、何が楽しく、何の為に生きているのですか?平凡な毎日が一番幸せなんて感情は到底もてません。

生きる喜びを感じることができない?

人生の目的が分からないというより、生きる喜びを感じることができないという悩みではないでしょうか。もしかしたら感情に障害があるのかもしれません。専門医の診察を受けてみるのも一つかもしれません。ただ、生きる喜びを感じることができないというだけで、特に問題もなく無難な人生を送っているようですので、それほど大きな障害があるとも思えません。

人の為に生きる

一つ言えることは、この方は自分の為にしか生きていないように思いますが、どうなのでしょうか。人の為に何かをしてあげたということはあるのでしょうか。私たちは自分の為だけに生きているなら、それは自己中心ですから、決して生きる喜びを本当には感じることができないのではないかと思います。人の為に生きる時に、人の役に立てる時に、私たちは生きる喜びを感じるように造られているのではないかと私は思います。

私たちは一つのからだであり、一人一人は器官なのです

パウロという人が、私たちは一つのからだであり、お互いがお互いを必要としている存在であるということを書いた手紙が新約聖書の中にあります。ご紹介いたします。

新約聖書 コリント人への手紙第一 12章14~26節

確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。

しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

神様は私たちをそのような者として造った

人類は一体なんだと思います。その中で自分に与えられた働きがあるということだと思います。自分のことだけでなく、神様を中心にして、自分の果たすべき働きをして、全体の益となることこそ私たち人間の生きる意味ではないかと思います。そこに生きる喜びがあるのではないかと思います。

どんな小さなことでも良いと思います

困っている人がいたら助けてあげてみてください。道を教えてあげたり、水を一杯差し出してあげるだけでも良いかもしれません。人の悩みを聞いてあげることもできると思います。自分のことだけでなく、人の為に何かしてあげてみてください。

自己中心ではなく、神様を中心にする

結局、自己中心が問題ではないでしょうか。自分の思いや考え、感情を中心としないで、神様の願い、思い、正しさを中心にして生きてみてください。宗教をやることではありません。神様を中心にすることです。そこに生きる喜びがあると思います。そのために毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心として生きるために聖書を読むことをお勧めいたします。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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