何故いじめが起こるのか

「いじめ」は社会問題です

学校における子供達の「いじめ」の問題は自殺まで起こっており、大きな社会問題になっています。大人の世界においても、「いじめ」はあります。職場においても、地域においても、時には趣味の会においても、「いじめ」があるようです。

本人が気付いていなくても「いじめ」はあります

大人は表向きは「いじめ」に見えないように指導と言ったり、あなたのためと言ったり、また本人もそれと気づいていないこともありますが、相手に対する苦々しい思いや、やっつけたいという思いが、その動機にあるなら、それは「いじめ」だと思います。

「いじめ」の原因は自己中心

どうして、いじめは起こるのでしょうか。いじめの動機は何なのでしょうか。それは自分が中心でありたいという思いだと思います。人よりも自分の方が優れた者でありたいという自己中心だと思います。何でも自分の思い通りにしたいという自己中心が原因だと思います。

ちょっと考えれば分かることです

職場において、弱い立場の人をいじめて何かプラスになることがあるでしょうか。それで自分は気持ちが良いのでしょうか。どんな理由をつけたとしても、職場の雰囲気は悪くなり、成果を出すこともできないでしょう。いじめは何の良い結果ももたらさないことは、誰でもちょっと考えれば分かることだと思います。その人を滅ぼし、社会を滅ぼし、結局自分も滅ぼすことになってしまいます。

それでもいじめる人間とは何なのでしょうか

人間は生まれながらに自己中心なので、悪いことだと分かっていても、いじめは起こるのだと思います。残念ながら、天使のような心を持って生まれて来る人は一人もいないので、ある程度、それは仕方がないことだと思います。しかし、それは悪いことだと認めることが第一歩だと思います。自己中心こそ罪の本質だと認識することです。自己中心こそが自分を滅ぼし、人を滅ぼし、社会を滅ぼすことを自分の中でしっかり認識することが大切だと思います。

悪いという自覚

そうすれば、人をいじめたい、やっつけたいという思いはあっても、それはいけないことだと自分にブレーキをかけることができると思います。また、いじめてしまった時にも、良心の呵責を覚え、反省することができると思います。だから良心の呵責を覚えることは良い事だと思います。良心の呵責を覚えることは決して快適なことではありませんが、だからと言ってそれを誤魔化してはいけないと思います。自分を責めることでもありません。大切なことは悪から離れることだと思います。良心はそのために神様から与えられているものだと私は思います。

神様を中心にすること

自己中心を肯定し、改めるつもりがない人は改善の余地がありません。神様を中心にしてください。そうすれば、自分を救い、この世界にも救いをもたらすことができます。それは何かの宗教の信者になることではありません。神様を中心にして生きることです。そうすれば、良心が強められていくと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツなのです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にするために読んでみてください。

新約聖書 使徒の働き 23章17~24節

そこでパウロは、百人隊長のひとりを呼んで、「この青年を千人隊長のところに連れて行ってください。お伝えすることがありますから」と言った。百人隊長は、彼を連れて千人隊長のもとに行き、「囚人のパウロが私を呼んで、この青年があなたにお話しすることがあるので、あなたのところに連れて行くようにと頼みました」と言った。

千人隊長は彼の手を取り、だれもいない所に連れて行って、「私に伝えたいことというのは何か」と尋ねた。すると彼はこう言った。「ユダヤ人たちは、パウロについてもっと詳しく調べようとしているかに見せかけて、あす、議会にパウロを連れて来てくださるように、あなたにお願いすることを申し合わせました。四十人以上の者が、パウロを殺すまでは飲み食いしない、と誓い合って、彼を待ち伏せしているのです。今、彼らは手はずを整えて、あなたの承諾を待っています。」

そこで千人隊長は、「このことを私に知らせたことは、だれにも漏らすな」と命じて、その青年を帰らせた。そしてふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵(そうへい)二百人を整えよ」と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。

それは正しいことではない

パウロに反感を持つユダヤ人たちによるパウロの暗殺計画がローマの千人隊長に伝えられました。ローマの千人隊長は決してパウロの味方ということでもなかったと思いますが、事実確認もされないままに、闇から闇へとパウロが葬られてしまうのは正しいことではないと判断したのだと思います。

これは宗教の問題ではありません

このローマ人はユダヤ教徒でも、キリスト教徒でもなかったと思います。パウロの宗教に好感を持っていたということでもなかったと思います。パウロがなぜ憎まれているのかも千人隊長は良く分からなかったと思います。しかし、何が正しいことであるのか、それは宗教とは関係なく、その良心で判断することができると思います。

神様は良心に語られる

どんなに上手に自分をだましたとしても、これは教育だ、指導だと自分と回りに言い聞かせたとしても、そこには相手に対する慈しみがあるのか、心から相手を思いやる気持ちから出ているものなのか良心で判断することができると思います。神様は私たちの良心に語り掛けていると思います。それは宗教とは関係ないことだと思います。

神様を中心にすること

良心の声に従うこと。自分の気持ちや感情を中心にしないこと。それが神様を中心にすることだと思います。

自己中心を止めて、神様を中心にしてください

いかがでしたでしょうか。一人でも多くの人が自己中心を止めて、神様を中心にして生きるようになって欲しいと心から願っています。そこに本当に幸いな人生があると思います。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアの協力もよろしくお願いします。