【日本人と日本文化】日本人にとって神様とは

平安神宮と巫女さん

神様について頭で考えたり、説明したりするのは西欧的な考え方であって、本来日本人の考え方ではなかったのだと思います。このことについて、小野善一郎氏はその著書「日本を元気にする古事記の『こころ』」の中でこのように書かれていらっしゃいます。

日本人にとって神様は観念ではない

知識をたくわえ、物識りになったとしても、それは真実を真に知ったということではありません。知識は、あくまで真実・真理への目印です。神々を観念として考えたならば、何も分からないでしょう。神々の鎮座を心より信じること。それ以外にはありません。それにはまず、自分の本性を自覚し、天地万物に神性を見る心境を得ることが大事です。そして、そのことによって真実を体認すること。それ以外は真実をたとえでもって説いている隠喩であり、比喩でしかありません。真実を説明するために、註釈を多くつければつけるほど、真実からどんどん遠くなります。細分化すればするほど本質・根本から遠くなり末節にながれるのではないでしょうか。(以上は著書からの引用です。)

西欧的な考え方

物事を分析し、細分化して理解しようとする考え方は西欧的な物の考え方だろうと思います。私たち日本人は本来そのように物事を考えてはいなかったということではないでしょうか。そして、そのような日本人の心を忘れないようにすることは大切なことではないかと思います。小野氏の著書から続けます。

日本人の心

私たちは、物事の理解を助けるために、いろいろと註釈、説明、そして証拠をほしがります。しかし、古代の日本人が、何の註釈もつけずに、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、志那都比古神(しなつひこのかみ)、久久能智神(くくのちのかみ)、大山津見神(おおやまつみのかみ)と(何の説明もなく名前のみ古事記に記されているのをそのまま)信じていたような清らかな心を日々の修養によって得ることが大事です。そしてそのことは、自分以外のものによって得るのではなく、一番身近な自分自身に本来備わっている本性、神様から賜った本体を自覚すればよいことなのです。我欲我見の異心(ことごころ)を祓って祓って、万物に神性を見ることができる感性豊かな心を取り戻せばおのずと文字に表されなくとも理解できるのではないでしょうか。(以上は著書からの引用です。)

理屈で全てを説明できる訳ではない

西欧的な物の考え方では全てを知性で分析し、説明しようとすると思います。私たちも西欧的な教育を受けているので、そういう傾向があり、それで分かったような気になりますが、本当に大切なことは分かっていないのかもしれません。日本的な考え方もあることを知り、大切にするべきではないかと思います。

ユダヤ人の考え方

実はユダヤ人も日本人と同じような考え方があるように思います。私は聖書も分析的に読むだけではなく、日本人の心で読むと、これまで西欧キリスト教では分からなかったことも分かるようになるのではないかと思っています。イエスもまた説明ではなく、生活を重んじ、教えは比較的少なかったように思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではありません。それは神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、実は日本人の生活に深く関係していると思います。キリスト教の教典という先入観を捨てて、日本人の心の源泉に触れるために聖書を読んでいただきたいと思います。

新約聖書 マタイの福音書 16章24~28節

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

自分の十字架を負う

「イエスについて行く」というのは、自己中心を退けて、神様を中心にして生きることだと思います。それは自分の十字架を負うことだとイエスは言っています。それは神様から与えられた使命、任務に生きるということを言っているのでしょうか。「十字架」というと、一般的に不幸な宿命とか、悲運のように悲観的な事を指して使われることが多いように思いますが、もっとポジティブに考えても良いのかもしれません。

まことのいのち

結局、自己中心に生きるなら、「まことのいのち」、本当の人生を失ってしまうことになるということでしょう。神様を中心にすることこそ「まことのいのち」だと思います。やがてどのように生きたのかが判断され、報われる時が必ず来るとイエスは言ったのでしょうか。それはイエスの言葉の解釈を頭の中で考えることではなく、実際に神様を中心にして生きることで深めることなのかもしれません。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA