【子供の教育】自分で考える子供を育てる

荒波
協調性は大切だが

協調性は「和の精神」であって大切なことだと思います。人の考えを理解したり、共感する力がなければ、人との和を築くことはできないでしょう。しかし、それは決して自分の考えを持たないとか、人の意見を鵜呑みにするとか、人に迎合することではないと思います。自分の考えをしっかりと持ちながら、人の意見にも耳を傾け、共感を築くことができるようになることが大切だと思います。

自分で考える

自分の考えをしっかりと持つためには、自分の頭で考える力を養うことが不可欠だと思います。どうしたら自分で考える子供を育てることができるでしょうか。K.I.T.虎ノ門大学院主任教授の三谷宏治氏は「座って悩まず、動いて考えることだ」と言います。

発想力を鍛える

「悩みは、一種の感情であり、思考ではない。自分が悩んでいると思ったら思考停止状態だから、まずは動くことだ。人と話したり、新しい情報を取りに行ったり、行動して考えることで発想力を磨くことができる。自分の常識が覆されることは貴重な経験だ。いったい何が起きたのか(What)から始まり、なぜか(Why)と繰り返すことが探究である。当たり前だと思っているところに発見はない。捨てることを怖がっていると選択できない。発見だけで満足してしまうと探究に結び付かない。分からなかったら、近づいたり、測ったり、比べたり、話したりして、動いて考えることだ。発想力を高めるには、人と違うことに慣れなければならない。発想とは、誰も思いつかなかったことを考えたり、人と異なる考えを言ったりすることだ。自分だけの意見を持つことが楽しいと思えることが大切となる。親は、子どもに問いを与えて一緒に考え、子どもの答えを面白がり、「また教えてね」と返すとよい。おもちゃは、折り紙、ひも、ブロック、壁一面のホワイトボード等を使い、自分で自由に遊びをつくらせると発想法の練習になる。自分で調べ、考え、決めさせ、失敗させることだ。子どもに何かを任せ、それが達成できないことを親が我慢できるか、人と違うことをしたときに褒めてやれるか。」ということが大事だと三谷氏は言う。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は日本人の信仰の原点です。神様を中心にして生きるとは、人が言ったことを鵜呑みして生きる生き方ではなく、神様は自分に何と言っているのか、自分で考えて生きる生き方でもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 4章35~41節

さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

すると、激しい突風が起こり、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。ところがイエス自身は、舳(とも)の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれて死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

自分のことを心配する弟子たち

弟子たちがおぼれ死ぬと思った状況の中で、イエスは舟の前方の最も揺れる場所で、まくらをして眠っていたというのですから、驚きます。ぐっすりと眠っていたように読み取れます。弟子たちの言葉にも驚きます。「先生、起きてください。おぼれてしまいすよ。」とイエスのことを心配したのではなく、「私たちがおぼれても、かまわないのですか」と自分のことを心配したというのです。人間とはそんなものなのでしょうか。

いったい、この方はだれだろう

しかし、もっと驚くべきことは、イエスが風と海を叱ったら、静かになったということです。弟子たちも驚いて、「いったい、この方はだれだろう」と言ったことが記されています。本当にこういうことがあったのでしょうか。イエスはそのような超自然的な力を持っていたのでしょうか。しかし、神様の力がイエスを通して働いていたとすれば、それは考えられないことではないと私は思います。確かにイエスは神様が特別に油注がれた「メシヤ」であるという証拠ではないでしょうか。

どうして信仰がないのか

ここでよく考えなければいけないのは、「どうして信仰がないのか」と言われたイエスの言葉ではないでしょうか。「信仰」とは、神様を中心にすることだと思います。なぜ、神様を見失ってしまうのかという意味ではないでしょうか。命の危機を感じる状況の中で、人間の力ではどうすることもできないような状況の中で、神様を見失うと恐れに包まれてしまうのではないでしょうか。全ての状況を神様は支配している。その中で私たちは生かされている者である。だから、神様にお任せすべきことはお任せして、自分ができることに全力を尽くせば、それで良いのではないか。それが神様を中心にして生きるということではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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