【日本とイスラエル】長崎のサバト寄りと安息日

日本とイスラエルに関連した事柄について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。

「サバト寄り」の風習

秦氏や景教に関してもう一つ興味深いのは、長崎のキリシタンの間にあった「サバト寄り」の風習である。これは、毎週土曜日にキリシタンが集まってお祈りをしたり、一緒に食事をしたり、談話したりする会である。江戸時代と明治初頭のキリシタン迫害時代をくぐりぬけた人々の間に古くから伝わっていた風習で、彼らは日曜日のミサ以外にこの風習を持ち続けてきた。

起源はかなり古い

今も長崎・浦上の老カトリック信者にはこの記憶がある(月刊『太陽』1963年12月号にその記事がある)。彼らによると、以前にはこの風習は浦上だけでなく、広い範囲にあったという。起源はかなり古いのではないかと思われる。

安息日の習慣が日本にあった

前述したように、佐伯教授が日本のある地方には宗教的な安息日の習慣が見られた、と証言していることとも関係があるのかも知れない。またこれも前述したように昔ユダヤ人の旅行者が、日本には安息日を守るグループが存在していたと証言していたこととも、関係があるかも知れない。

なぜ長崎のキリシタンの間にあったのか

その安息日の風習が長崎のキリシタンの間にもあった。ヘブル語では安息日をシャバットと言い、「サバト寄り」のサバトはまさしくそれであろう。問題は、なぜ彼らカトリック系キリシタンの間に、古来、土曜日を安息日として守る風習があったかということである。

これはユダヤ人の風習

カトリックには、土曜安息の風習はない。これはユダヤ人の風習なのである。にもかかわらず、彼らキリシタンの間にシャバット(安息日)を守る風習があったとすれば、起源はカトリック以外の所にあるに違いない。

カトリック以前に日本に伝わっていた景教

じつは景教は、フランシスコ・ザビエルがカトリックのキリスト教を日本に伝えるよりもずっと前に、すでに日本に入っていた。ザビエルが日本に来たとき爆発的にキリスト教徒が増えたのは、そうした景教という下地がもともと日本にあったからなのである。当時のイエズス会の報告をみても、自分たちが来るより前に、ある種のキリスト教信仰が日本にあったと書いてある。

景教徒には安息日の風習があった

もしサバト寄りの風習が、ザビエル以前の景教時代からのものであるとすれば、それは日本の景教徒の間に土曜(第七日)安息の風習があったということになるであろう。先に見たように、アサヘル・グラントは景教徒の間には安息日の風習があったと報告している。彼らはイスラエル人だったからである。とすれば、日本の景教徒の間に土曜安息の風習があったとしても、決して不思議ではない。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統、信仰に深い関係があると考えられます。外国の宗教の教典という考えはひとまず脇に置いて、日本人として、また人として神の前に正しく生きるということについて思いを巡らすために聖書を読んでみてください。

新約聖書 ルカによる福音書 9章18~27節

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。

彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。

それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

神のキリスト

ここでイエスは「神のキリスト」、つまり旧約聖書が預言し、イスラエルの人々が待ち望むメシヤだと言われて、否定していないので、それを認めたということを伝えているのだと思います。しかし、イエスはなぜ彼らを戒めて、だれにも言うなと命じたのでしょうか。続けてイエスは、苦しみを受け、ユダヤ教の指導者から捨てられ、殺され、三日目によみがえると預言されているのがメシヤだと言いました。

イエスとイエスの言葉に従う

そして、イエスは集まっている人々に向かって、イエスに従うとはどういうことなのか語りました。それは自分を捨て、覚悟を決めて、イエスとイエスの言葉に従うこと、それが本当の意味で自分の命を救うことになると教えています。それは日本人の宗教としては形骸化してしまいましたが、その国民性の中に引き継がれている部分があると思います。自分を捨てること、それが命を救うこと。それは本来の日本人の心であり、武士道にも通じる心ではないでしょうか。日々、聖書を開き、イエスとイエスの言葉に心を向けてみてください。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」