【日本とイスラエル】秦氏(その3)

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

感謝の歌

さらに七世紀半ば、皇極天皇の時代(紀元641~643年)に、秦氏の一群が日本に渡来した。日本書記によれば、彼らは書記や宗教指導者など、文化レベルの高い人たちであった。彼らもまた先に来た人々と同様、天皇による歓迎を受けた。彼らは日本の地が堅固な地であることを知り、苦難の旅路のあとに、ついにこの日本に導き入れて下さった最高神に対する賛美と感謝の歌を歌った。この感謝の歌の歌詞は日本では意味の分からない部分が多い。

ウズマサハ

ウズマサハ カミトモカミト キコエクル トコヨノカミヲ ウチキタマスモ

これをヘブライ語で解釈すると

旅路の力(ウゾ・マサ)が来られた
欠けたるところのない至高の神、至高の神が来られた
その栄光はいかほどか
急げ、彼が来られるのだから
その名はなんぞ
さあ急げ

となる。

才能豊かな渡来人たち

日本に来た秦氏の人々の文化レベルは非常に高く、また彼らは「ヤハタ」と呼ばれる唯一神の信仰を持っていた。「ヤハタ」の音はヘブライ語で「ヤー・エハッド」、つまり「唯一の主」という意味に聞こえる。彼らは日本に来ると「伊勢」という日本で最も古い神社を建てた。秦氏たちは主に大阪、京都、伊勢、奈良などに住んだが、彼ら一族は宮廷で仕えていたため、日本各地にも散らばって住んだ。

各地に残る秦氏の痕跡

その痕跡が現在でも「ハタノ」「ヤハタ」「アヤハタ」「オハタ」「ハダ」「ハタ」などの名前になって残されている。大阪の寝屋川市には、秦氏の豪族、秦河勝の墓があり、今日まで地元の人々の尊敬を集めている。秦氏が日本に渡来してすぐに支配階級にまで取り立てられたことは、その後の渡来人たちへの門戸が閉ざされなかったという点で大きな意味があった。

日本の氏族

新撰姓氏録によれば、日本の氏族は三つの集団で構成されていた。まず「神別(シンベツ)」であるが、彼らは最初に日本に渡って来て島々に住んだ人々である。ヘブライ語で「スィム・ボ・ツール」と読めば、「彼らに神を置け(彼らに神への信仰がある)」という意味になる。

皇別

次に「皇別(コウベツ)」である。日本語の意味は「皇族に属する氏族」であり、女神アマテラスに繋がる神武天皇を祖とする氏族である。ヘブライ語で「キー・ボ・ツール」と読めば、なぜなら彼らに神があるから」という意味になる。皇別の人々は日本で最初に神道の祭司になった人々であり、偶像崇拝とは無関係である。彼らの祭儀はイスラエルの宗教のそれに似ており、主に契約の箱(神輿)の周辺に集中して行われる。彼らの詩歌には古代イスラエルの影響の痕跡を見ることができる。

蕃別

最後の「蕃別(バンベツ)」は、後代になって日本に渡って来た氏族の集団である。ヘブライ語で「ガム・ボ・ツール」と読めば、「彼らにも神がいる」となる。彼らは大陸や朝鮮半島南東部から渡ってきた人々で、人口調査当時(紀元815年、第52代嵯峨天皇の命令によって行われた人口調査)の日本の人口の約37パーセントを占め、文化的、経済的に最も進んだ階層を成していた。彼ら渡来人たちは世界の諸民族の中でも特別な精神性をもった日本民族の宗教、文化、性格の形成に甚大な貢献をしたのである。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 5章17、18節

そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

私の父は今に至るまで働いておられる

イエスは38年間も病気で悩んでいた人をいやした。その日は安息日であった。そのためにユダヤ人たちはイエスを責めた。それに答えたイエスの言葉です。「私の父」とは神のことでしょう。確かに安息日だからといって、神が働いていないということはないでしょう。神はまどろむことも、眠ることもなく働いておられる。なぜ、神は安息日を守るようにとモーセを通してイスラエルの民に命じたのでしょうか。それは神に目を留めるためだったはずです。にもかかわらず人々は安息日を守ることを中心にしてしまい、神の戒めを宗教にしてしまったのだと思います。

神を自分の父と呼ぶ

神を父と呼ぶことは、自分と神とを等しいものとすることになるとユダヤ人は思ったようです。確かにイエスは神を「父」と呼び、また弟子たちにもそう教えました。私たちは神を親しく「父」と呼んでよいとイエスは教えたのです。それは決して自分を神と等しいものとすることではないでしょう。もちろん神は崇高な存在です。畏敬の念を持つべきでしょう。しかし、ただ私たちから遠く離れた存在ではありません。私たち人間と親しく関わってくださるのです。イエスはそう教えたのだと思います。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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