【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(27)御嶽(ウタキ)

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。今日は沖縄の御嶽(ウタキ)について、瑞慶山道弘氏のブログからご紹介させていただきます。

沖縄の御嶽(ウタキ)

御嶽の多くは、山や森の空間、泉や川などの自然の空間で、島そのものが御嶽ということもある。沖縄には奥武(オー)と呼ばれる小さな島々が幾つかあるが、かつては無人で、葬所であった。それらの島々は、島そのものが御嶽と見なされている(「琉球の地名と神名の謎を解く」平良恵貴著)。

それは神が降臨される場所

また実際に、小高い山の頂上付近に、御嶽の拝所が多く見られるが、それは山を聖なる場所、御嶽としているのである。沖縄に点在しているグスクは、高い所にあるが、そこにも御嶽や拝所がある。首里城内にも御嶽がある。沖縄では山の名前に「岳」を良く使うが、沖縄語辞典では「岳は拝所のある山」と解説されていた。宮古島のように、山のない平らな島では、こんもりと茂った森なども「山」と呼ばれ、その「山」の中に御嶽がある。これは山や森という自然の空間に、神が降臨されるという信仰の表われである。

社殿のない神社

また日本全国にわたって社殿の無い神社が、点在しているが、そのような神社は、非常に沖縄の御嶽と似ている。それは折口信夫氏が「琉球の宗教」を「琉球神道」と言ったほどである。実際に御嶽信仰を、「原始神道」あるいは「古神道」と位置づける専門家も多い。ある神社は、滝や巨岩、さらには山そのものが、ご神体だというものもある。・・・・・・奈良の大神(おおみわ)神社(別称:三輪神社)は、古来社殿のない神社として有名で、現在も、三輪山を拝する拝殿はあるが、本殿はない。これは三輪山そのものをご神体としているのである(「原始の神社をもとめて」岡谷公二著)。

聖書の記述

これは古代イスラエルの神礼拝に通じるものがある。聖書の中に

目をあげて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこからくるのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121:1-2)

これは山を見上げているが、山そのものを神としているわけではなく、この山を造られた天地の造り主なる神に、心を向けていることが分かる。イスラエルにおいて、山や高い所は、神聖な場所とされている。特にこの詩編は、イスラエルのエルサレム巡礼の歌である。この巡礼は三千年も前から行なわれていたもので、巡礼者たちは山の上にあるエルサレム神殿に向かい、このような詩編を歌いながら進んだのである。

高き所

他にも、十戒はモーセがシナイ山の山頂で、神から受けたものであり、イスラエル民族にとって、シナイ山は神を体験した聖なる山とされている。またエルサレム神殿が建てられる以前は、主の幕屋(移動式の簡易神殿)はギブオンの「高き所」に置かれていたのである。この「高き所」という言葉は、古代イスラエルにおいて、殆ど「拝所」と同じ意味で用いられている。「高き所」は、町の中に小高い段を設けて礼拝所とした所もそう呼ばれたが、一般的には実際に高い場所に造られることが多かった。古代イスラエルでも、沖縄と同様に、高い所に礼拝所が造られたのである。(ブログからの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は沖縄および日本の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 使徒行伝 27章1~8節

さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された。そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。

次の日、シドンに入港したが、ユリアスは、パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許した。

それからわたしたちは、ここから船出したが、逆風にあったので、クプロの島かげを航行し、キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。そこに、イタリヤ行きのアレキサンドリヤの舟があったので、百卒長は、わたしたちをその舟に乗り込ませた。

幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。

舟の進みがおそかった

カイザルの法廷に立つために、いよいよパウロのローマへの船旅が始まりました。その旅の記録が記されています。それは神の意図、神の計画にしたがったものであるとパウロは受け止めていましたが、その旅は必ずしもスムーズではなく、舟の進みが遅かったと記されています。パウロはどう受け止めていたのでしょうか。すべてを神の手にゆだねていたので、何も思い煩うことはなかったのでしょうか。それとも、神の計画のはずなのに、なぜ事はスムーズに進まないのだろうと思っていたのでしょうか。何も記されていませんが、どこまでも神を中心にすることが平安の土台だと思います。どこまで神を中心に物事を受け止めることができるかによって、心の平安は決まるのではないかと思います。神を中心にするとは、決して白か黒かということではなく、どこまで神を中心にして物事を受け止めことができるかというレベルの問題もあると思います。

いかがでしたか

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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