【日本とイスラエル】神道用語になったヘブル語

神社の拝殿

日本と古代イスラエル人との関連について、久保有政氏のYouTube動画解説「日本の中の古代ユダヤ~伝統に受け継がれた古代イスラエル」からご紹介いたします。

「ヨリシロ」(前回の続き)

また先に「ヨリシロ」(依代)、すなわち神の霊が降臨する際の媒体となるものについてみた。ヨリシロは神道では鏡や御幣、刀などであり、一方、古代イスラエルの幕屋においては、十戒の石の板、マナの壺、アロンの杖などがそうであった。

「ヤラ」「シロ」

ヨリシロ(依代)の「シロ」は、ヘブル・アラム語で「彼(神)の器(乗物)」を意味する「シロ」(siro)から来たものと思われる。またヘブル・アラム語の「ヤラ」(yarad)には「降臨する」の意味があり、「ヤラ・シロ」(ヨリシロ)で、「降臨のための器(乗物)」の意味になる。

「ヤシロ」

一方、神社のことを古くから「ヤシロ」(社)という。古くは「屋代」と書いたというが、これがもともとヘブル・アラム語の「ヤハ・シロ」(Yah siro)から来たものなら、それは「ヤハウェの器」「ヤハウェの斎場」の意味である。

「ナオライ」(直会)

神道にはまた「ナオライ」(直会)という言葉がある。これは一般には、神前に供えた捧げ物(酒や食物)を祭のあとに下げ、祭に関わった者たちで共にいただく宴会と同一視されている。しかし厳密には直会とは、祭が終わったあと、その宴会の前に、座をかえて神をまつり直すことをいう。祭の際の種々のあやまちを「直し」「正す」のである。この「ナオライ」また「ナオル」という言葉は、「光を受ける」を意味するヘブル・アラム語「ナオル」(naor)によく似ている。

「忌み」

神道にはまた「忌み」という言葉がある。「忌み嫌う」の「忌み」、つまり「忌む」ことである。これがもしヘブル・アラム語の「イム」(im)から来たとするなら、それは「ひどい」の「意味」である。

「神主」「禰宜」「祝」

神道では、神職名として「神主(かんぬし)」「禰宜(ねぎ)」「祝(はふり)」などの語が使われている。これらもヘブル語によく似ている。カンヌシはヘブル・アラム語の「カム・ナシ」(kamunashi 長)、ネギは「ナギ」(nagid 司)、ハフリは「カフリ」(kaphri「贖いをする者」)から来たと解せられる。

「ミソギ」

一方、神道でいう「ミソギ」(禊ぎ)は、ヘブル・アラム語の「ミソグ」(misog 分別・聖別)から来たように思える。

「ハラウ」

「ハラウ」(祓う)は、「ハーラー」(hala 遠くへ捨てる)に由来するものであろう。言葉においても、風習においても、古代イスラエルと日本の伝統文化との共通点は多い。これを単なる偶然と考えることは不可能なことだろう。(久保有政氏の解説からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。

旧約聖書 創世記 22章1~8節

これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

神はアブラハムを試みた

「試みる」とは、「試す」、「試験をする」ということでしょう。百歳にしてやっと与えられたひとり子イサクを燔祭として神に捧げよという言葉にアブラハムは従うのか。それとも自分の人間としての思いを中心にするのか。全人類の救いの土台となるアブラハムに求められている信仰はとても高いものであったことがわかります。しかし、アブラハムには悩んだり、躊躇したり、迷ったりした様子は記されていません。淡々と翌朝になるとモリヤの地に向かっているように記されています。決して神はすべての人にこのようなことを要求されないでしょう。しかし、アブラハムは特別だったのでしょう。そして、神を中心にして生きるアブラハムの姿勢は、この時に至って、まったくブレていない様子が伺えます。アダムは人間中心になって、全人類に罪と滅びをもたらしてしまいましたが、アブラハムは神に従うことによって、全人類に救いをもたらしたのだと思います。

いかがでしたか

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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