自己中心からの解放

私の個人的な考えですが役に立てば幸いです

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、神様を中心とした生活をすること、そのために毎日時間を決めて祈り、聖書を読むことを勧めています。このブログでも毎日少しずつ聖書を引用し、私の感想や考えを書いて、皆様の参考にしていただいています。今日も「ルカの福音書」の続きを読んで、私の考えを書いてみたいと思いますが、それはあくまで私の個人的な感想であり、私の個人的な考えです。これが聖書の教えであるとか、これが絶対的な真理だということを言っている訳ではありません。そのことを踏まえてお読みいただくことが大切だと考えています。

聖書の絶対化がもたらす危険

これまでも何度か書いてきましたが、聖書をどのような書として読むかということも、「日本人の信仰と聖書について考える会」がお伝えしたい重要な内容の一つです。私は聖書と呼ばれる複数の古文書は決して全ての時代の全ての人類に向けて直接語られた絶対的な教えとしての神様の言葉が記録されている訳ではないと思います。普通の方はそのような読み方をされることは稀だと思いますが、キリスト教を含め、宗教ではそのような読み方をしていることが多く見受けられ、それが自己主張の絶対化となり、宗教的な紛争の原因となり、時には殺人や侵略の正当化にまで発展することがあるので、敢えて注意をさせていただいております。

大切なことはあなたはどう思いますかということ

聖書には神様の言葉も含まれていると私も思います。それは読めば分かります。しかし、それは過去に神様がそのように語られたという事実の記録であって、それをそのまま絶対化して神様の教えとすることは出来ないし、聖書にもそう書いてないと私は思います。大切なことは、聖書を読んで、あなたはどう思いますかということだと思います。

神様は生きておられるお方

私は神様は単なる教えではないと思っています。神様は目には見えませんが、今日も生きて働いて、私の心に声なき声をもって語り掛けてくださるお方であるというのが、私の実感している神様です。目には見えませんが、この方をいつも意識して、この方の思いを中心にして生活するところに全ての問題の解決があるというのが私のお伝えしたいことです。だから、聖書の中に神様の教えを探すのではなく、それは過去の事実の記録(しかし、神様の働きについて書かれた他にはない貴重な記録です)として読み、そうだなと思うこともあれば、そう思わないということがあっても良いと思います。そうやって今生きて働いておられる神様が自分にどのような確信を与えてくださるのかということが大切ではないかと思っています。

個人的な確信を絶対化しない

ですから、そのようにして与えられた個人的な確信をもって、これが神様の絶対的な真理だと主張することもできないし、他人に押し付けることもできないと思っています。私が「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めたのは、私の確信していることを正当化したり、絶対化することではなく、私の個人的な確信が皆様の役に立てば嬉しいという目的で始めました。今日も私の考えていることを書いてみたいと思いますので、どうぞ参考にしていただければと思っています。

新約聖書 ルカの福音書9章18~27節

「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。『群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。』 彼らは、答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。』 イエスは、彼らに言われた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』 ペテロが答えて言った。『神のキリストです。』 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』 イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。』」

イエスは人となった神様

イエスという人物の噂が広まっていました。あなたはどう思うかと尋ねられた時、ペテロは「神のキリストです」と答えました。「キリスト」は名前ではありません。その言葉の意味は「油注がれた者」という意味で、旧約時代の預言者たちが、やがて神様が人となって来られると預言していた方のことであり、「人の子」とも呼ばれ、ヘブル語では「メシヤ」と言われます。ペテロはあなたこそ人となった神様ですと答えたのです。イエスは誰にも話さないようにと言われましたが、否定されませんでしたので、肯定されたんだと思います。

神様を知っているだけではなく、神様を中心にする

続いて、人の子、つまりキリストは死んで、よみがえると言われたことが記録されています。そして、そこにいたみなの者に「わたしについて来たいなら、自分を捨てなさい」と言われたことが書かれています。このイエスという人物こそ人となった神様だということが分かったのであれば、いつまでも自分を中心とした生活ではなく、この方を中心にした生活をすることが求められているのだと思います。結局、自分を中心にしていると、自分を失ってしまう。しかし、神様を中心にする時に、自分を救うことになる。私たちは自分を苦しめ、自分を失わせているのは、結局自分を中心にしたいという思いであったということに気づかされるのではないでしょうか。

神様を中心にすると自己中心から解放される

「ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」 「神の国」とは、神様を中心に生きる世界だとすれば、ここにいる人の中にそれを味わうことが出来る人がいますと言われたのかもしれません。神様を中心とすること。そこに自己中心からの解放があるということを思わされます。