神様に委ねる

自己中心も神様が分かれば解決できる

全ての問題の原因は結局のところ「自己中心」に行きつく。昨日、そのように書きました。煩悩とか、自我が問題だということでしょう。「欲しい」と思うから苦しい。だから、「欲しい」という欲を滅却して無我の境地になればいい。でも、そんなことって出来るんでしょうか。そのために修行に励む人もいるでしょう。実はこの問題の解決も自分と向き合うのではなく、神様が分かれば解決すると私は思います。

諦めではなく、もっと良い計画があるってことです

自分の欲求をただ諦めるのではなく、神様にはもっと素晴らしい解決があるということが分かれば、自分の計画、自分の思いに固執するのではな、神様に明け渡すことができるようになると思います。もちろん、私は神様の計画を全て知っている訳ではありません。私が知っているのは、ただ神様の計画は必ず私の計画よりも優れているということだけです。それが神様ですよね。

無我の境地ではなく、神様に明け渡す

それは自力で自我を捨てるのとは違います。何も思わないようにして無我の境地になるということでもありません。諦めが肝心ということでもありません。私は私がやるべきことはやりますが、自分の思い通りに進まない時、神様は私よりも優れた計画を持っておられるのだからということに思いを向けることができれば、神様に委ねて、自然と自分の思いからは解放されていくという感じですね。

私に委ねられていることなのか、神様に委ねることなのか

大切なことはその見極めだと思います。神様が私に委ねている私の責任まで神様に委ねてはいけません。それでは神様とかなんとか言いながら、ただの無責任だと思います。私がやるべきことは私がやるべきだと思います。でも、神様に委ねるべきことは神様に委ねることです。その見極めには経験が必要だと思います。一朝一夕にできるものではないだろうと思います。経験を重ねながら、いつもこれは私に委ねられている領域なのか、それとも神様に委ねるべきことなのか、その感覚を磨いていきたいと思っています。

日本人としての良識と品格を磨け

それが日本人としての良識を磨くことであり、品格を高めることだと思います。決してインスタントにはいかないことだと私は思います。「日本人の信仰と聖書について考える会」が、そんな日本人としての品性と品格を磨いていきたいという方々との良き交流の場となれればいいなあと私は思っています。それはあくまでも「考える会」であって、私が完成しているとか、私の教えが正しいということではありません。共に刺激し合えたら良いと思っています。