【特別寄稿】今回の旅行の未公開写真

古代ユダヤ系渡来人ゆかりの地を巡る旅

今回の旅行は「古代ユダヤ系渡来人ゆかりの地を巡る旅」ということで、石川県のモーゼパークから始まって、京都府丹後にある元伊勢籠神社、そして島根県の出雲大社を訪問した後、南下して瀬戸内海を渡り、徳島県にある剣山とその周辺にある遺跡や神社を訪問し、再び本州に戻って岡山県にある大避神社を経て京都市内に入り、秦氏関連の場所を何箇所か訪れ、その後、伊勢神宮、長野県を北上し、諏訪大社、そして仙台に戻る予定でした。

旅行再開を願っていますが、今のところ未定

残念ながら急用が出来てしまい、これから出雲大社というところで、一度仙台に戻ることになり、今は仙台にいます。この夏に旅行が再開できるかどうか今のところ未定ですが、来週後半あたりからでも再開できるといいなあと思っています。そこで、今日はこれまでのところで、まだ公開していなかった写真をいくつかご紹介させていただき、今後の旅行に期待していただければと思います。

モーゼパーク未公開写真

モーゼパーク入口の公園当初の計画では、最初の目的地は丹後の籠神社でしたが、少し足を伸ばせば、モーゼパークに寄ることができることが分かりましたので、今後来るチャンスはなかなかないことを思えば行くべきだと考えました。到着したのが、もう夕方で、熊注意の看板はあるし、駐車場付近はご覧のように整備されているのですが、モーセの墓に辿り着くには山の中へ入っていかなければならないこともあって、翌朝もう一度来ようということになりました。

三ッ塚古墳翌朝、山の中へ入って行くと、ハイキングコースのようになっていますが、他には誰もいないので、一人だったらちょっと不安になったかもしれません。とにかく蚊がすごいので、必ず虫よけスプレーをしていかなければなりません。頭に虫よけスプレーは出来ないので、私は帽子をかぶって行きましたが、帽子に蚊がたくさんとまるような状態です。写真は三ッ塚古墳の1つですが、地面が盛り上がっているのが分かりますでしょうか。

モーセの墓このような山が確かに3つあって、その中央の山のてっぺんが写真のようにモーセの墓になっています。

 

 

籠神社の狛犬

籠神社の狛犬(右)籠神社の狛犬(左)籠神社の鳥居をくぐると、その両側に重要文化財の狛犬があります。鎌倉時代に作られたものだと記されています。「伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中不意に天橋立の松林に出現して、元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。偶々親の仇討ちにひそんでいた岩見重太郎が之れを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。以来社前に還座して専ら魔除の霊験が聞こえたと伝えられる。他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作と云われる。」と書かれています。

徐福上陸地と經文岩

徐福伝説の地の表示新井崎神社の鳥居丹後には徐福伝説があるので、どこか徐福に関連する場所が見つけられたらいいねと話してはいたのですが、道の駅を捜して道に迷っていたところ、徐福上陸地の小さな表示を見つけたのです。神様の導きとしか言いようがありません。でも、まずは道の駅で食事をしてからにしようと言っていたら、徐福のことをすっかり忘れて、実は一度戻りかけてしまったのです。そのことに妻が気づいて、急遽戻って、徐福上陸地を訪れることが出来たというハプニングがありました。徐福上陸地は海に面した新井崎神社にありました。

徐福上陸地、經文岩の表示

經文岩鳥居をくぐって中へ入って行くと、目の前は海に面した絶壁です。表示に従って右に進むと、まず經文岩というのが右手前にありました。逆光で分かりにくいかもしれませんが、大きな岩が覆いかぶさって、洞穴のようになっています。「この岩が經文岩と呼ばれる所以は、里人が経を唱えて徐福を匿ったことによると伝えられるが、これは全くの伝説である。記録によれば西域から中国に仏教が伝わったのは紀元前後。そして朝鮮半島百済から我が国に仏教経典がもたらされたのは538年とされる。徐福は天竺におもむいて仏教を修めること7年という伝説もあるがしかし、この時代丹後半島に仏教が伝わっていたとは考えにくい。だが、古代における記録或は文献或は口伝などの整合性を追いかけること自体が問題で、こういう場合その裏にひそむものを探ることに意味があるのかもしれない。ここは、口碑記にいう徐福集団と原住民邑長との問答の場所であったと考えたい。この岩の側面にこの岩に似つかないコンクリートの壁がある。此処は大東亜戦争の遺構である。この洞窟には探照灯が格納されており、事ある時ハコ岩に引き出されて夜空を照らしたのであった。陸軍の砲台も海軍の施設も今は無い。ただ經文岩のコンクリートだけが残された。古代の徐福の渡来の跡と現代戦争の跡という異質のものが同居する經文岩なのである。」と説明板にはありました。

徐福上陸之地石碑徐福石碑から見た風景經文岩のさらに先の断崖の上に「方士 徐福上陸之地」と書いた石碑が立っています。写真は石碑と石碑のある場所から見た風景です。この正面あたりに徐福を祀った新井崎神社があります。そちらにも行ってみることにしました。

 

 

 

 

新井崎神社

新井崎神社の鳥居から海を見る新井崎神社新井崎神社は海に対面して建っています。説明板にはこう書いてあります。「祭神である徐福が登場するのは中国の歴史書『史記』である。秦始皇本紀28年(BC219)徐福は始皇帝に上書した『海中に三神山があります。ここに仙人がおり、不老不死の薬を練っています。身をきよめ童男童女を共にこれを求めたいと思います。』始皇帝は徐福と童男童女を海に出して仙薬を求めさせた。時代は人皇七代孝霊天皇の御宇徐福はこの地を易筮によって予知した。上陸したところはハコ岩。求めた仙薬とは、黒茎の蓮と九節の菖蒲であった。徐福はよく邑人を導いたので邑長となり死後、神として祀られた。神社の創建は長徳4年(998)場所は今の愛宕さんの付近だったが、前を通る舟に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。御神徳は海上安全漁撈満足そして病氣の平癒、特にハシカの神として有名である。」

徐福上陸地の表示また、通りに面した交差点には、このような表示があり、この先に徐福上陸地があることを知らせています。「浦嶋伝説・徐福伝説 伊根の舟屋をめぐるみち 新井崎神社 今から約2,200年前(弥生時代の初期)、中国の秦の始皇帝の命を受け、方士徐福が綿密な計画のもとに数ヶ年の歳月を費やし、不老不死の仙薬を求めて童男童女3,000人、五穀の種子、百工(技術者)を従え東海に船出した。新大明神碑記によると、徐福がこの地を易筮によって予知し、漂着した場所は新井崎のハコ石であると伝わっている。新井崎には、古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を新井崎神社の神様として信仰をあつめている。」と書かれています。

徐福はユダヤ系渡来人だったのではないか

実はこの徐福はユダヤ系渡来人だったのではないかと言われており、後に物部氏と名乗るようになったのではないかと言われています。徐福はユダヤ人の中でも宗教儀式を担当するレビ人と呼ばれる人たちであり、日本の神道はこのような人々によって始まったと考えると、日本神道と古代ユダヤ教の多くの類似点について納得の行く説明が出来るのではないかと考えられます。

いかがでしたか

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