信仰とは何でしょうか

一言で言うなら神様を中心にすること

これまでこのブログでお伝えしてきたことをまとめていますが、第一は全ての問題は神様を中心にすることで解決すること、第二にそれはクリスチャンになるとか、何かの宗教の信者になるということではないということ、そして第三に毎日祈り、聖書を読むことは神様を中心とするための有効な手段だということをお伝えしてきました。今日、第四番目にお伝えしたいことは、他の人の意見も聞いてみるということをあげたいと思います。

他の人の意見も参考に聞いてみましょう

これまであまり強調して来ませんでしたが、他の人はどのように考えているのか、その意見を聞いてみることも、自分はどう生きるのかということを考える上で参考になると思います。もちろん、中心は神様ですから、同じように神様を中心にして生きようとしている人の意見の方が参考にはなると思いますが、時にはそうでない方の意見もいろいろと考えるきっかけになることもあります。また、仏教ではどのように考えているのか、禅ではどうなのか、そういった本も参考になるかもしれません。

ネットで意見交換ができるので便利ですね

今はこのようにネット上でそれぞれの意見を交換し、お互いの参考にすることができるのでとても便利だと思います。どうぞ皆さんの意見や感想、質問などをコメント欄にお寄せください。自分の意見の正当性を主張して、他人の意見を批判するのであれば、それは無益だと思いますが、自分の意見を検証するための議論であれば、議論もまた有益だと思います。そのような議論を読む人にとっても、それぞれ自分の確信や信念を検証する上で有益でしょう。ポイントは私たちはみなそれぞれ自分の確信を持って生きる者だということをお互いに尊重しながら、それぞれ確信していることを聞かせていただいて、お互いに参考にするということだと思います。私はこう考えているけれども、皆さんはどう考えますかというような投稿をお待ちしております。

新約聖書 ルカの福音書8章40~56節

それでは今日も少し聖書を読んで、私が考えたことを書いてみますので、皆様の参考にしてみてください。「さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。イエスは、『わたしにさわったのは、だれですか』と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから』と言われた。女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。そこで、イエスは彼女に言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。』 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。『あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。』 これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』 イエスは家に入られたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょに入ることをお許しにならなかった。人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。『泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。』 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。『子どもよ。起きなさい。』 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」

神様に対する態度の違い

これまでも何度か書いておりますが、これは事実の記録であって、教えではないという点を押さえて聖書を読むことが大切だと私は思っています。でも、この事実の記録を読んで、感じることはそれぞれにあると思います。それぞれにあるのであって、唯一の正しい解釈がある訳ではないということです。イエスと弟子たちの一行はゲラサ人の地からカペナウムに戻ったのでしょう。群衆は喜んで迎えた。待ちわびていたとあり、ずいぶんゲラサ人とはイエスを迎える態度が違うものだなあと私は思いました。神様を中心にしたくない人と、まだよく分からないまでも神様を中心にすることに何らかの期待を持っている人との違いなのかもしれません。

神様の力を引き出すのは「信仰」

さて、この箇所には二つの出来事が記録されています。一つは長血をわずらっていた女がイエスの着物のふさに触ったら直ったという出来事です。イエスの回りには大ぜいの人がひしめき合っていて、イエスにぶつかる人はたくさんいたんだと思いますが、この女の触れ方は他の人とは明らかに違いました。そう、病気の癒しを求めて触れました。このことから思うのは、イエスは確かに人となった神様であり、病気を直す力があったということ。この女はどこかでイエスの噂を聞いたのでしょう、イエスのところにやってきて、その着物に触れたら直ったということ。この女の思いと行動をイエスは信仰と呼ばれたこと。女の信心深さが病気を直したのではなく、直したのは神様ですが、その神様の力を信じてイエスに触れる「信仰」が大事なんだなと私は思いました。神様の力を引き出すのは「信仰」であり、神様を中心にすることで、神様の力を受けることができたということではないかと私は思いました。

神様に期待する

もう一つはヤイロの娘のよみがえりです。イエスが娘の手を取って、「子どもよ。起きなさい。」と叫ばれると、娘の霊が戻って、ただちに起き上がったとあります。昨日も書きましたが、人の体を生かしているのは霊であり、霊が体を離れると体は死んでしまいますが、霊が戻れば生き返るんだなあということをこの箇所からも思いました。これはまさに臨死体験ですね。また、人となった神様であるイエスはこのように霊に命じることができるんだということも分かります。それから、イエスはペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの両親以外は家に入ることを許さなかったとありますが、イエスをあざ笑っていたからかなと思いました。人間的な視点で考えるのか、それとも神様にはできるという視点で見るのか。神様にはできるという視点を信仰と呼び、神様の視点がないことを不信仰と言うのではないでしょうか。

その時、その時、与えられる神様の声

それでも両親はひどく驚いたと書いてあります。つまり、まさか生き返るとは思っていなかったのでしょう。だから、病気は絶対直るとか、娘は必ず生き返ると信じることが信仰だということではなく、神様に頼るということが信仰なんだと私は思います。最後にイエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられたと書いてあります。どうしてなんでしょうね。ゲラサ人の地では、神様がどんなに大きなことをしてくださったのかを話して聞かせなさいと言われましたが、このユダヤ人の両親にはだれにも話さないようにと言われました。良く分かりませんが、神様を決して固定化した教えのように考えてはいけないということを思わされます。その時、その時、与えられる神様の声なき声といいますか、それぞれに与えられる確信に従って生きることが大切なんだということをあらためて考えさせられました。