日本とイスラエル
ご存知の方も多いかもしれませんが、日本とイスラエル文化、聖書の文化には多くの類似性があることが指摘されています。そのいくつかを紹介したいと思います。
まず、日本の神社と旧約聖書の時代のイスラエルの幕屋の構造の類似性です。神社も幕屋も外の世界と隔てられていて、入口は1箇所だけしかありません。拝殿の前にはどちらも身を清める水が置かれています。神様の前に出る時、日本人は水で体を清めますが、ユダヤ人も同じようにしました。熱心なユダヤ教徒であれば、日本の神社には違和感を感じないと言います。(イラストは「日本とユダヤのハーモニー」より)
神社と幕屋の見取り図です。神社には拝殿と本殿があり、幕屋も聖所と至聖所に分かれています。神社の本殿、また幕屋の至聖所にはどちらにもご神体が安置されています。神社のご神体は鏡、剣、勾玉ですが、イスラエルの幕屋には、モーセの十戒が記された石板、アロンの杖、マナの壺があり、どちらも3つであるという点でも共通しています。また、ご神体はそれ自体が神様だという偶像ではなく、神様がそこに降りて来られる場所、または神様を象徴する依代(よりしろ)と呼ばれる物であるという点でも共通しています。日本人もイスラエル人も神様は目に見えない霊的な存在だと考えているのです。(イラストは「日本とユダヤのハーモニー」より)
日本のお神輿と幕屋の至聖所に安置されていた神の箱の予想模型です。どちらも、ご神体を入れて人がかついで運ぶという点で、大変良く似ていると思います。
日本の宗教修行者である山伏とユダヤ教の宗教指導者ラビです。山伏は額に「ときん」と呼ばれる小さな帽子のようなものをつけていますが、ユダヤ教のラビもヒラクティリーと呼ばれる皮の箱を額と左腕につけて祈ります。また、山伏はほら貝を吹き、ユダヤ教のラビは角笛を吹いています。
実は、このような類似点は表面的なものだけでなく、内面的な価値観や習慣にまで及び、あげれば切りがありません。興味のある方はインターネットで「日本ユダヤ」と検索すれば膨大な量の情報を見ることができますが、これは単なる偶然と言えるのでしょうか。それとも日本の文化・伝統にはイスラエルの影響があるのでしょうか。日本とイスラエルの歴史を比較して検証してみたいと思います。
イスラエル民族は歴史上3回の大きな離散を経験しています。1回目はB.C.722のアッシリヤによる北イスラエル滅亡(アッシリヤ捕囚)です。多くの北イスラエルの人々がアッシリヤに連れて行かれ、殆どはどこに行ってしまったのか分からなくなってしまいました。いわゆる「消えた10部族」と呼ばれる出来事です。続いて、2回目の離散はB.C.586の南ユダの滅亡(バビロン捕囚)です。南ユダの人々もバビロンに連れて行かれ、その後、B.C.537頃、ペルシャのクロス王によって帰還が許されて、一部の人々はエルサレムに戻って神殿を再建し、やがてイエス・キリストの時代を迎えます。ところが、イエス・キリストがA.D.30頃に十字架にかけられた後、A.D.70にはエルサレムはローマによって滅ぼされ、A.D.135にはユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを禁止され、離散の民となります。この時からユダヤ人は完全に国を失いました。彼らはどこへ行ったのでしょうか。
その多くはパレスチナ周辺にいたと思われますが、シルクロードを通って東へと向かった人たちもいたと考えられ、シルロード沿いや中国でもユダヤ人の遺跡が発掘されています。その中には日本までやって来た人がいたとしても決して不思議ではないと思います。その証拠はあるのでしょうか。日本の歴史と見比べつつ、検証して行きたいと思います。
最初のイスラエル難民はB.C.722ですが、時を同じくして、日本には多くの渡来人がやって来たことが分かっています。それまで、日本では狩猟を中心とした縄文と呼ばれる時代だった訳ですが、この頃から、急に海を渡って多くの人々が日本にやってきて、各地に農耕を中心とした集落が形成されるようになったことが分かっています。これが弥生時代への移行をもたらしたと言われていますが、その渡来人はどこから来た人々なのかというと、学校では朝鮮半島からの渡来人と学びます。それは漢民族であるとか、モンゴル系騎馬民族であるとか、様々な説があります。しかし、その中には多くの北イスラエル、続いて南ユダからの難民が含まれていたということは十分に考えられるのではないかと私は思います。そして、B.C.219秦始皇帝の方士(方士というのは呪術師のような人だったようですが)である徐福という人が日本に来たという記録が中国にはあります。それを裏付けるように日本各地に徐福伝説というのがあって、この秦始皇帝も、また徐福もイスラエル人だったのではないかと言う人もいます。そして、この頃から日本各地に神社が建てられ、これが日本の神道の始まりになったと考えられるのではないでしょうか。
京都府北部の丹後地方に日本最古の神社の一つである元伊勢籠神社という神社があります。代々、神職を務めるのは海部(あまべ)氏ですが、初代は主祭神でもある「天火明命(あめのほあかりのみこと)で、正式名を「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明(あめのほあかり)櫛甕玉(くしみかだま)饒速日命(にぎはやひのみこと)」と言います。この「にぎはやひのみこと」というのは物部氏の祖神であり、海部氏は物部氏の中でも最も格式の高い祭祀一族であったことが分かっています。そして、驚いたことに、この物部氏の神道は一神教であったということが籠神社に残っている古文書から分かっています。神道は本来、八百万の神々ではなかったのです。
徐福伝説はこの丹後に集中していることから、物部一族はユダヤ系渡来人の徐福だったのではないかと言う人たちもいます。物部氏は宗教的にも中心的な存在ですから、もし物部氏がユダヤ系渡来人だったとすれば、イスラエル民族の中でも宗教行事を担当するレビ人と呼ばれる人たちだったのかもしれません。もしそうだとすると、日本の神道はイスラエルの宗教行事を担当するレビ人によって始められ、日本中に神社が建てられていった。だから、神道とユダヤ教は大変似ているという説明がつくのではないかと思います。
(地図と写真は「日本とユダヤのハーモニー」より)
また、古事記、日本書記によれば、日本の初代天皇の神武天皇はB.C.660に即位し、大和朝廷が始まったとありますが、実際にはこの頃から、一神教の物部神道とともに大和朝廷は始まったのではないかと考えられ、多くの学説とも合致するようです。
そして、紀元後、A.D.283に、秦氏と呼ばれる一族の先祖と考えられる弓月君が日本にやって来たという記録が日本書紀に記されています。この秦氏というのはユダヤ系のキリスト教徒だったのではないかと、たとえば文化勲章を受章している梅原猛のような著名な学者をはじめ多くの学者が言っています。最も有名なのは、1908年(明治41年)の早稲田大学名誉博士の佐伯好郎博士の説だと思います。佐伯博士によれば、それは景教と呼ばれるネストリウス派の東方キリスト教であったのではないかと言っています。ただ、景教が中国の長安(現在の西安)に伝えられたのが、A.D.635と言われておりますので、年代的には無理があるように思います。佐伯博士も晩年には秦氏は景教徒ではなく、原始教会のキリスト教徒ではないかと説を修正したようです
新約聖書の「使徒の働き」を見ると、初代のイエスを信じた人々はヘブライ語を話すユダヤ人を中心としたエルサレム教会とギリシャ語を話すユダヤ人や異邦人を中心としたアンテオケ教会の2つに分かれたことが記されています。エルサレム教会というのはペテロやヨハネなどイエスの直接の弟子達を中心としたユダヤ的な文化を持つ教会ですが、アンテオケ教会というのは新約聖書の大半を書いたパウロという人を中心としたギリシヤ的な文化を持つ国際的な教会です。このアンテオケ教会がやがて西欧に広がって行くキリスト教会に発展していきますが、エルサレム教会はどうなったかというと、A.D.135まではエルサレムにいたことが分かっています。その後、エルサレム教会の人達は、ユダヤ人たちからの迫害のために、ユダヤ人としての生活を棄てて、アンテオケ教会の人たちと同化して、西欧キリスト教徒になって行った人たちもいれば、ユダヤ人としての文化伝統を守ることが大切だと考える人たちもいれば、それぞれ移り住んだ土地の文化風習に同化して行った人たちもいたのではないかと考えられます。そのような人たちの中には、やはりシルクロードを通って、東へ東へと向かい、ついに日本までやって来た人たちもいたということは十分に考えられるのではないかと私は思っています。そのようなイエスの直接の弟子たちの中のあるグループの末裔(イエスをメシヤと信じるユダヤ人のことをメシヤニック・ジューと呼ぶ)が、自らを秦氏と名乗ったのではないかと私は考えています。そうすれば年代的にも説明がつくと思います。また、私がそう考えるもう一つの理由は、もし、秦氏が景教徒だったとしたら、私はもっと景教が日本に残っていても良いのではないかと思いますが、歴史的にもそのような痕跡はないと思います。私は、秦氏は景教徒ではなく、イエスの直接の弟子たちのユダヤ人の中のメシヤニック・ジューと呼ばれるグループの末裔だったのではないかと考えています。それをキリスト教と呼ぶべきかどうか、それはキリスト教とは何かという定義にもよりますが、少なくともそれは我々が今日キリスト教と呼んでいる西欧キリスト教の流れの中にあるものではありませんので、私はキリスト教と呼ぶべきではないと思っています。しかし、聖書に基づくユダヤ人の信仰が紀元前から日本にもたらされていた可能性は高く、またA.D.3世紀頃にはイエスの教えに従うユダヤ人(メシヤニック・ジュー)の信仰も日本にもたらされ、今日の日本人の文化、伝統、信仰に大きな影響を与えた可能性が高いと私は考えています。
やがて、秦氏は5世紀頃には有力な豪族となり、機織り、日本酒、灌漑工事、巨大古墳建造など、日本文化を形成する上で重要な役割を果たしていきます。いわゆる日本らしさというものは、この頃、秦氏によって作られたと言っても過言ではないようです。A.D.471には、秦酒君(はたのさけのきみ)という人が雄略天皇から「ウズマサ」という姓を与えられたことが日本書紀に記されています。今も京都には太秦と書いて「うずまさ」という地名がありますが、秦氏の拠点であった場所です。
A.D.538日本に仏教がもたらされると、仏教を受け入れるかどうかで大和朝廷に騒動が起こります。A.D.587仏教を推進する蘇我氏が物部氏を追い出して、仏教勢力が大和朝廷を支配するようになり、そのような情勢の中、秦河勝(はたのかわかつ)という人は聖徳太子の側近となり、A.D.622聖徳太子から国宝の弥勒菩薩半跏思惟像を譲り受け、広隆寺を建てて、安置しています。
A.D.645今度は藤原氏が蘇我氏を滅ぼすと、再び神道勢力が大和朝廷を支配するようになります。大化の改新です。ところが、不思議なことに藤原氏は物部氏を復権させることがありませんでした。つまり、大化の改新以降、大和朝廷は再び神道になったのですが、その神道は以前の物部神道とは一線を画す新しい神道(藤原神道)になったということです。
そして、古事記、日本書記はこの藤原神道によって編纂され、神社神道はこの時から一新されたのではないかと思います。
A.D.794に大和朝廷は京都に都を移しますが、この時にも秦氏が大きな役割を果たしたことが分かっています。京都は秦氏の本拠地だったのです。都は平安京と名付けられました。それはイスラエルの首都、エルサレム、エル・シャローム(平和の都)と同じ意味ですが、これも偶然と言えるのでしょうか。また、都の近くには琵琶湖がありますが、エルサレム近郊にもキネレッテ湖という湖があって、その意味は楽器の琵琶という意味ですが、これも偶然なのでしょうか。
藤原神道、それは秦氏の神道ですが、もし秦氏がイエスを信じるユダヤ人(メシヤニック・ジュー)のあるグループの末裔であったとすれば、その神道は旧約聖書的な神道から、イエスの教えによる新約聖書的な神道に一新されたと考えることができ、藤原氏が物部神道には戻らなかったということも説明がつくのではないかと思います。
これは古事記、日本書記に記されている天の岩戸開きという物語を絵にしたものです。この天岩戸開きという物語は天照大神が天岩戸にお隠れになり、世界中が暗闇に閉ざされてしまったので、神々が集まって、天照大神を呼び出したという話です。天照大神というのは太陽の神、光の神です。洞窟の中にお隠れになったというのは、つまり一度死んだということではないのでしょうか。そのために世界が暗闇に閉ざされた。しかし、洞窟の封印は解かれ、再び天照大神が出て来られると、世界に光が戻った。このテーマは一体何を表しているのでしょうか。
もしかしたら、それはイエス・キリストの十字架の死と復活というテーマに重なるのかもしれません。もちろん決定的な証拠がある訳ではないので、これはあくまでも仮説に過ぎませんが、それでも日本人とユダヤ人の関係を否定することもできないのではないかと思います。
確かにユダヤ人は世界中に離散しましたので、世界中にユダヤ人の痕跡はあるようですが、日本ほどその影響を色濃く残しているところはないと思います。日本人とユダヤ人は特別な関係があることは間違いないと思います。やがて物的な証拠が何か発見されれば、そのことも実証できるのではないかと思っています。