日本人が太古の昔から崇めてきた神は、キリスト教、イスラム教といった特定の宗教の神ではなく、全ての宗教を超越し、天地万物を支配される唯一の神です。「古事記」には、その御名を「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と記され、聖書には「わたしはある」という御名で記されています。
神に委ねる
日本人は日々の心配、恐れ、悲しみさえも神に委ねて生きて来ました。人間の力ではどうすることもできない事があっても、神が許されたことだと全てを受け入れて、敗戦も、大震災も乗り越えて来ました。目には見えませんが、神にお任せすることはお任せし、やるべき事に集中する。それが日本人の驚異的な力の源です。
神が中心
物事が思い通りに進まないと、ストレスを感じることがあるかもしれません。しかし、この世界は人間ではなく、神を中心にして回っていると受け止める時、自分の思いからも解放されます。人間の思いを超えた、もっと素晴らしい神の計画がある。それが本来の日本人の心です。
神に感謝する
衣食が与えられていること、今日生かされていること、それは決して当たり前のことではなく、神の守り。それが太古の昔から日本人が大切にして来た心です。
神と共に歩む
神と共に歩むことができる。これが日本人にとっての幸いです。もちろん、神に願い事をすることもあると思いますが、本来、日本人はご利益を求めて神を拝んだのではありません。昔の人はこう書き残しました。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」
自分に頼らない
崇高で神聖な神を知れば知るほど、自分の汚れ、不完全さを感じるでしょう。それが本当の謙遜であり、気高い人格には不可欠なことです。大切なことは、それでも神の憐みは変わることがないことを知って、最善を尽くすこと。それが本来の日本人の強さです。
神に祈る
日本人にとって神は説明ではなく、日々の祈りと生活の中で体験し、深められるものです。毎日の生活の折々で神に思いを向けて祈り、感謝と願いを捧げる。それが本当の日本人の信仰です。
「自己中心」という問題
全ての問題の原因を辿って行くと、「自己中心」に行き着きます。古事記では「異心(ことごころ)」と呼び、聖書では「罪」と呼んでいますが、それは「的外れ」という意味です。「自己中心」を追求しても、そこに喜びはなく、苛立ちがあるばかりです。日本人は太古の昔から「自己中心」を退け、神を中心にすることが救いであることを知っていたはずです。
神を中心にして生きる
戦後、日本には人間中心の価値観が、あたかも良いものであるかのように入って来たために、神を中心にして生きるという本来の日本人の心が軽視されるようになったと感じます。しかし、神を中心にして生きるという日本人の信仰に世界の救いがかかっています。
神の前に正しく生きる
「神を中心にして生きる」とは、「神の前に正しく生きる」ことです。正しく生きることと人生の幸いは深く関係しています。悪を行いながら、幸いな人生を生きることは出来ません。神の前に正しく生きること、それ自体が幸いな生き方です。
日本人と聖書
古代日本の歴史を調べると、日本人の信仰は聖書とイエス・キリストの教えから来たものであることが分かります。聖書と言えば、キリスト教の教典と思われる方が多いかもしれませんが、実は聖書の心は日本人の心にこそ引き継がれています。聖書の信仰に明確に立ち返り、神の民としての自覚に目覚めるために聖書を読んでください。日本人が神の民として立ち上がる時、世界に救いをもたらすことになります。