「かごめかごめ」に込められたヘブライ語のメッセージ

皆さんも「かごめかごめ」という歌をご存知だと思います

「囲め」なら分かりますが、なぜ「かごめ」なのでしょうか。「夜明けの晩に」とか、「後ろの正面だーれ」とはどういう意味なのでしょうか。この歌もまたとても不可解ですが、ヘブライ語で解釈すると驚くべきメッセージが込められていることが分かるようです。今日も「日本とユダヤのハーモニー」から学ばせていただきます。

何か大切なものが隠されている

まず、「かごめ」ですが、ヘブライ語で「囲む」「守る」という意味の「カゴー」と「誰」「何」を意味する「ミー」を繋げて「カゴーミー」ではないかと考えられるようです。「何が守られているのか」という意味になります。この歌は目隠しをして鬼になった子供を囲んで、その周りを手を繋いで周りながら歌います。「かごめ」という言葉には、大切なものを囲んで、それをみんなで守るという意味があったのかもしれません。また、鬼は目隠しをして座りますが、それは隠されていることを象徴しているのかもしれません。

守られて封印された

続いて、「カゴ・ノ・ナカ・ノ」の「カゴ」は「守る」、「ノェ」は「鍵をかける」、「ナカ」は「置かれた」、「ノェ」は「鍵をかける」。すると「籠の中の」はヘブライ語で「守られて封印され、置かれて閉ざされた」というような意味だと考えられます。続く「鳥は」は、「取り出せ」という意味の「トリー」、「そして」という意味の「ヴァ」。「籠の中の鳥は」は「守られて封印され、置かれて閉ざされた物を取り出せ」と解釈できます。

火をつけろ

「いついつ」は、ヘブライ語で「火をつける」を意味する「ヒッツィ」。「火をつけろ、火をつけろ」となります。「であう」は「社」を意味する「ディユウー」。これにヘブライ語で「神」を意味する「ヤー」、「ヨー」と読む「夜」を続け、「神の社」という意味だと考えられます。「明け」は「根絶する」という意味の「アカー」。「ヒッツィー・ヒッツィー・ディユウー・ヤ・アカー」で、「火をつけろ、燃やせ、神の社を根絶せよ」という意味になります。

お守りの岩

「晩に」はヘブライ語で「造る」「建てる」を意味する「バニティ」。「鶴」は「岩」を意味する「ツー」。「亀」は「お守り」を意味する「カメア」。「鶴と亀」は「お守りの岩」という意味。「滑った」は「水を出す」を意味する「ショーエヴェ(shoevet)」。「晩に鶴と亀がすーべった」は「お守りの岩を造り、そこから水が湧く」と解釈できます。「後ろの」は「地域を支配する」という意味の「フシュラッ」。「正面」は「荒地」を意味する「ショーメム」。「だーれ」は「水を引く」という意味の「ダラー」。そうすると「かごめかごめ」はヘブライ語でこのように解釈することができます。

「かごめかごめ」の意味

何が守られているのか。何が守られているのか。守られて封印され、置かれて閉ざされた物を取り出せ。火をつけろ。火をつけろ。神の社を根絶せよ。お守りの岩を造り、そこから水が湧く。水を引いて、荒地を支配せよ。

四国の剣山にあった古代山上国家のことではないか

日本では神宝がいつの時代にも大切に取り扱われてきました。そのルーツにイスラエルの神の箱が関係していたのではないかと言われています。神宝は山の頂上付近の神の社に安置されていましたが、国家体制に一大事が生じ、山上国家は崩壊の一途をたどりました。神宝を取り出す命令が出され、周囲一帯は火で焼かれました。その後、お守りの岩が建造され、そこから不思議と水が湧き、その地域一帯が統治されるようになったことを「かごめかごめ」は伝えているのかもしれません。「かごめかごめ」の舞台は四国の剣山と考えられ、剣山界隈にはイスラエル・ルーツの伝承が多くあることからも、それが裏付けられるようです。

新約聖書 ルカの福音書9章51~56節

それでは、今日も聖書の続きを少し読みましょう。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔(みかお)をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。」

人となった神様が天に帰る時は近づいていました

「天に上げられる日」とは、イエスが十字架につけられる時ということでしょう。弟子たちはそのことを理解していないようでしたが、人となった神様であるイエスがこの地上を離れて天に帰る時は近づいていました。南ユダの首都エルサレムでイエスは十字架につくのですが、その途中、サマリヤ人の町に入りました。サマリヤ人とは北イスラエルの人々で、他民族との婚姻により、イスラエル民族の血の純粋性が失われ、南ユダの人々からは軽蔑されている人たちでした。イエスが南ユダの首都エルサレムに向かっているということで、サマリヤ人はイエスを受け入れなかったと記されています。

イエスを受け入れないサマリヤ人

弟子のヤコブとヨハネは憤ったのでしょう、火を呼び下しましょうかと言いました。実際、そんなことがヤコブとヨハネに出来たのかどうか分かりませんが、もちろんイエスには出来たでしょう。しかし、イエスは彼らを戒め、別の村に行ったとあります。サマリヤ人たちはイエスが人となった神様であると分かっていたのでしょうか。イエスの著しい奇跡について聞いていなかったのでしょうか。それは分かりませんが、エルサレムに向かっているというだけで気に食わなかったのかもしれません。

神様を中心とした生活をすること。伝えたいのはそれだけです。

自分ではなく、神様を中心とした生活をすること。そこに私たちが抱える全ての問題の解決も、人生の幸せもあります。それは自分だけでなく、周りの人々にも益をもたらすことでしょう。何かの宗教をやることではありません。神様を中心とした生活をすることです。しかし、全ての人がそれを受け入れる訳でもないのかもしれません。それは残念なことですが、伝えるべき内容を正しく、誤解なく伝えられれば、それ以上は説得でも、議論でもないのだと思います。内容を良く分かった上で受け入れないのであれば、別の村に行くだけなのだろうと思います。皆さんはもう誤解していませんでしょうか。正しく理解していただきましたでしょうか。キリスト教徒になることではありません。何かの宗教の信者になることでもありません。大切なことは神様を中心にした生活をすることです。私が伝えたいのはそれだけです。