【キリスト教・宗教】私の信仰の歩み(1)

「イスラエル12部族に関する聖書預言と日本」というディープなテーマに入って行く前に、これまでの私の信仰の歩みと今考えていることなどを、ここで少しまとめておきたいと思います。そうすることで、どうして私がこういうテーマを取り上げるのか、またどうして私が「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めるに至ったのか、またこれを書いているのどんな人なのか皆さんに理解していただけるのではないかと思います。

「真理」があるなら

以前にも書きましたが、私は30歳の時にクリスチャンになりました。それ以前の私は宗教には全く関心がありませんでした。むしろ宗教は好きではありませんでした。結局、今も宗教は注意した方が良いという結論に至っています。でも当時、人は何のために生きるのかを考えた時に、正解があるなら、それに従って生きるべきだと思いました。「真理」とはそういうものでしょう。神は唯一であり、それは聖書の神であり、キリスト教の神だということが「真理」だとすれば、私に選択の余地はないと思ったのです。

正解を求め続ける歩み

その当時、「正解」を見つけた、「真理」を見つけたという大きな喜びがあったことは事実です。ただ今から思えば、それはキリスト教という宗教が真理だと受け止めてしまったということだと思います。そして、クリスチャンになった私は、単にクリスチャンになったからそれで良いということではなく、クリスチャンとしての正解は何かとさらに求め続けました。当時、私はすでに結婚していて、家族でクリスチャンになりましたので、家族内での反対はありませんでしたが、離れて暮らす親は私がクリスチャンになったことを快く思っていなかったと思います。

否定的な周りの反応

クリスチャンになった私は仏壇に線香をあげなくなりましたし、親戚の法要の焼香もしなくなりましたので、親からも親戚からも喜ばれていなかったでしょう。確かに一人二人クリスチャンになった私たち家族を肯定的に評価してくれる人もいましたが、職場の同僚を含め、殆どは否定的な反応だったと思います。それでも自分は真理に従っているのだから、それで良いと思っていました。

あの痛みは必要だったのか

こうして、私はそれ以前の生活に背を向けるようにして、それに対する否定的な反応には痛みもありましたが、真理に従うためには仕方がないと考えて、キリスト教徒としての生き方、人生の正解とは何かを求め続けました。今は日本人の信仰、日本人の生き方の中にこそ正解があるという結論に帰って来た訳ですから、あの痛みは必要だったのかということにもなる訳ですが、どうして私はこのような人生に導かれたのだろうかと考えています。続きは次回に書きたいと思います。もう少しお付き合いいただければ幸いです。

聖書を読みましょう

それでも聖書を読みましょう。聖書は宗教とは関係なく有益な本だと思います。世界最古の本です。私たち日本人に深い関係のある本です。これは読まなければいけない。読んでいただきたい。そう思います。

新約聖書 マルコによる福音書 10章32~45節

さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスは先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上で、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。

彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

近づく十字架の時

これまではイエスが先頭に立って行くということはなかったのでしょう。前にも後ろにも大勢の弟子たちや群衆がいて、話をしたり、病気を癒したりしながらここまで来たのではないでしょうか。ところが、今はエルサレムを目指して、イエスは先に立ってどんどん進んで行きます。人々は驚き、恐れたとあります。これまでとは違う緊張感がイエスから感じられたのかもしれません。エルサレムはイエスが十字架にかけられる都であり、その時が近づいていることをイエスは自覚していたのだと思います。

仕える人、僕となる

しかし、弟子たちの思いはイエスの思いとは遠く離れていたことが分かります。イエスは彼らに教えられました。仕える人となり、僕となりなさい。以前、私は偉くなりたくないし、かしらになりたいとも思わないので、仕える人にならなくても良いということかと考えたりもしましたが、もちろんそういうことではないでしょう。これが神様から見た尊い生き方だということだと思います。

自己中心を退け、神様を中心とする

人の子とはつまり、メシヤのことです。神様から特別な権威を与えられたイエス自身のことを指していますが、イエスもまた人々から仕えられるためでなく、仕えるため、あがないとは代わりに代価を支払うことですが、人類を神様のもとに買い戻すために、その代価として自分の命を与えるために、つまり十字架につくために来たと言っています。それがメシヤであり、イエスの姿であったということです。何と言えばいいでしょうか。自己中心を退けて、神様を中心にして歩みましょう。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」