【人生の目的】神様を中心にして生きる

私たちはロボットなのか

もし、私たちが神様によって目的を持って造られた存在であるとしたら、私たちは単なるロボットであって、そんな人生に一体何の意味があるのかという意見をネットで読みました。それは大変大きな勘違いだと思います。

偶然か、創造か

創造主である神様はいるのか、いないのか。いないとすれば、全ては偶然の産物であり、そこには何の意味もないというのは確かなことだと思います。しかし、神様がいて、私たちの存在の目的が私たちの側にではなく、神様の側にあるということは、私たちは何から何まで正解が決められているロボットに過ぎないということではありません。

自由意志

神様について、人生について、頭でだけ考えているとそんな考え方になってしまうのかもしれません。しかし、私たち人間には自由意志があります。そして、良心が与えられていて、善を行い、人の役に立てる時に生きる喜びを感じるように造られていると思います。悪を行って、自分のことしか考えないで幸せな人生を生きることはできないと思います。

神様は理屈ではない

それは理屈ではないと思います。それは実際に生きる実感だと思います。神様もまた理屈ではなく、人格と人格の関係だと思います。神様を証明することはできないかもしれませんが、神様の願いや思いを中心にして生きる人にとっては確かな手応えであり、実体だと思います。

神様は分かるのか

確かに神様は目に見えませんので、特に理屈で物事を考えるタイプの人にとっては分かりずらいと感じるのは無理もないことだと思います。しかし、私は分からなくても良いのではないかと思っています。いや、神様について少しは何かが分かったとしても、人間に神様の全てを理解することなど出来ないことだと私は思います。

それでも神様を中心にして生きること

うまく説明もできないかもしれません。しかし、神様に対する畏敬の念を持って、なるべく自己中心を退け、神様の喜びとなれるような生活をすること。そのような中でそれぞれが神様との関係を少しずつ深めること。それが人生ではないでしょうか。太古の昔から、日本人はそうやって生きて来たのだと私は思います。

人間の姿

今も昔も、人間中心を退け、自己中心を退け、神様を中心にして生きる。それが日本人の生き方であり、人間の姿だと私は思います。そのような秩序を守ることは、決してがんじがらめになることではなく、逆に本当の自由を謳歌することに他ならないと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は日本人の生き方に深い関係があると思います。それは決して人間の生き方を規定したマニュアルのようなものではありません。ですから、キリスト教の教典としてではなく、神様を中心とした幸いな人生を生きるための参考として、聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 11章7~19節

この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。

この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。

まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国(みくに)の一番小さい者でも、彼より偉大です。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

進んで受け入れるなら

バプテスマのヨハネこそ旧約聖書に約束されたメシヤの前ぶれをする者、きたるべきエリヤ(旧約聖書を代表する預言者であり、メシヤが来る前に再び遣わされると言われていた)だとイエスは言いました。ここで「あなたがたが進んで受け入れるなら」と言ったイエスの言葉が私の心には響きます。神様を中心にした生き方もそうですが、進んで受け入れて初めて本当にそうだと実感することができるのではないかと思います。

神様を中心にして生きる

続いて語られたたとえ話は、何でもかんでも反対する人たちのことを指して言っているのだと思います。そのような態度では何が正しいことなのかは分からないのではないでしょうか。「知恵の正しいことは、その行いが証明します」とイエスは言っています。進んで受け入れ、やってみて初めて、それが正しいのか、正しくないのか判断できるのではないでしょうか。神様を中心とした人生とはただ頭の中で考えることではなく、生きるという実践だと思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いについて、多くの人にお伝えできるように、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。皆様のお知り合いの方にぜひお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。