私が今確信していること

今日は「キリスト教、宗教」という水曜日のテーマに関連して、私が今確信していることについて書いてみたいと思います。皆様の確信の参考にしていただければ嬉しいと思います。

神様がおられること

この世界は神様によって造られたと私は思っています。2つ理由を挙げたいと思います。1つは人間をはじめ、生命の複雑さとその完成度の高さを見れば、それを偶然と考えるのは無理があり、創造主である神様を前提としなければ、私たちも、この世界の全ての存在も説明がつかないと思います。

もう1つの理由は、人間は皆、神様に対する思いを持っているという事実です。それは神様だとはっきりと確信している人もいれば、曖昧な人もいると思いますが、誰でも人間を超えた力を恐れたり、感じたりしていると思います。

神様を中心にして生きる

人間は神様によって意義と目的を持って造られた存在なので、神様の目的を中心にして生きることが人間本来の生き方だと思っています。ですから、神様の思いを離れ、自分勝手な思いや考えで生きることは自己中心であり、聖書のことばで言えば、それが「罪」(ギリシヤ語ではハマルティアという言葉が使われていますが、それは的外れという意味)であり、私たちが抱える全ての問題の原因がそこにあると思います。

イエス・キリストについて

イエス・キリストの十字架の死によって、人類の「罪」が取り除かれたので、私たちは神様を中心にして生きるという人間本来の生き方をすることができるようになったと思っています。そのように考える理由は2つあります。

1つ目の理由は、今から約2千年前、パレスチナの地にイエスという人物が実在して、自らをキリスト(油注がれた者)と名乗り、十字架の死によって人類の「罪」を取り除き、3日目に復活したことによって単なる教えや考え方の問題ではなく、実際に神様が生きて働いておられるという事が、著者が違う複数の古文書(「マタイの福音書」「マルコの福音書」「ルカの福音書」「ヨハネの福音書」ほか)に記されているので、その信憑性は高いと考えています。

もう1つの理由は、実際に自分の思いや考えを中心にしないで、神様の目的や思いを中心にすると問題が解決するので、これは事実だと思っています。このブログでは曜日ごとにテーマを設けて、そのことを具体的にお伝えしています。

必ずしもキリスト教徒になることではない

それは必ずしもキリスト教徒になることではないと思っています。これは宗教の問題ではない、生き方の問題だというのが私が今確信していることです。日本人の信仰、文化、伝統を大切にしながら、神様を中心にして生きるということが大切なことだと私は考えています。皆様がそれぞれの確信を持つための参考にしてください。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。それは日本人の信仰のルーツであり、神様を中心にして生きるために、とても参考になる本だと考えています。

新約聖書 使徒の働き 9章26~31節

サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名(みな)を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。

それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。

兄弟たちはそれと知って、彼をカイザイリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

イエスの弟子たちに受け入れられたサウロ

ここから分かることは、バルナバの口利きによって、サウロはエルサレムにいるイエスの弟子たちに受け入れられたということだと思います。そして、サウロはギリシヤ語を使うユダヤ人たち、つまり、もともとユダヤにいるヘブル語を使うユダヤ人ではないユダヤ人たちに語りました。

主の御名によって大胆に語る

具体的な内容が記されていないので、何を語ったのかは分かりません。ユダヤ教の習慣を守ることではなく、神様を中心にすることについて語ったのではないかと思いますが、教会が築き上げられていったとも記されているので、これは何か新しい宗教の始まりであるかのような話もしたのかもしれません。

大切なのは神様を中心とした生き方

しかし、大切なことはユダヤ教とは別に新しい宗教を始めるということではなく、神様を中心にして生きることだと私は思います。ここには「信者の数がふえて行った」と記されていますので、信じて受け入れる者と受け入れない者という区別があり、信じて受け入れる者たちの集団としての「教会」が形成されて行ったように思います。でも、大切なことは「主を恐れかしこみ、聖霊(神様の霊)に励まされて(確信が与えられて)前進し続けた」ということだと私は思います。どうぞ神様を中心にして生きることにより、これだ!という確信を持っていただきたいと思います。