日本の企業を支えているのは志の高い日本人

あるビジネスセミナーの広告にこのような文章が載っていました

日本は世界を代表する技術大国である。このことは疑いようのない事実でしょう。僅か1分半で次の電車が入線して来る山手線。一度も脱線事故を起こさない新幹線。世界各国から日本の技術を一目見ようと政府関係者が視察に相次いで訪れています。

しかし、どんなに日本の技術を自国へ持って帰ろうと、日本のように安全に、正確に機能するかというと、そうではないように思います。

日本が持てる技術力を発揮できているのは、〝誰かの迷惑になりはしないか〟と行動できる教養ある人が多いからです。時間を守ることができる。相手を思いやり、行動できる。これを社会資本と言います。(広告からの引用は以上です。)

日本の高い技術を高いレベルで支えるのは志の高い日本人

日本の高い技術力を高いレベルで機能させているのは志の高い日本人だということだと思います。技術を輸入しても、それを使う人が自分のことしか考えない自己中心的な人であれば、結果を出すことはできないと思います。

日本の若者の職業観

平成23,24年度の内閣府の調査によると、15~29歳の日本の若者は「何のために仕事をするのか」という質問にこう答えています。(2つまで回答可) 「収入を得るため」(63.4%)、「自分の生活のため」(51.0%)、「自分の夢や希望を叶えるため」(15.0%)、「家族の生活のため」(12.6%)、「仕事を通して達成感や生きがいを得るため」(11.3%)、「自分の能力を伸ばすため」(7.6%)、「働くのが当たり前だから」(5.9%)。

自己中心化する日本人

かつては日本の若者は「社会のため」と答えたそうです。戦前なら「お国のため」と答えたのではないでしょうか。日本の若者が自己中心的になっているのではないかと私は危惧します。特にバブル崩壊以降、個性の尊重とか、自己実現とか、自分らしくと言った面が強調された教育や風潮が、それを後押ししているのではないかと私は心配しています。

個人と全体

もちろん、個性も大事だと思いますし、個人の尊厳や権利は尊重されるべきだと思いますが、そういうことばかりが強調され、本来日本人が持っていた社会や全体を大切にするという価値観が失われて来ると、個人の生きがいも、喜びも、結局は失うことになってしまうと思います。パウロという人が、私たち一人一人は体の器官であって、私たちは全体で一つの体だと表現した文章が新約聖書の中に記されています。

個人主義は自分も人も社会も滅ぼしてしまうと思います

結局、自己中心は自分を滅ぼし、他人を滅ぼし、社会を滅ぼすことになってしまうと思います。神様の願いや思いを中心にして、互いに配慮し合い、自分だけでなく、全体の益となるようにと気遣うこと。そこに本当の生きる喜びがあり、それが日本人の心だと思います。

神様に思いを向けましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために、聖書を読んでいただきたいと思います。

新約聖書 使徒の働き 23章6~11節

しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」

彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。

騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない」と言った。

論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

サドカイ人とパリサイ人

ユダヤ人の議会でも、パウロは決して対決的ではなく、少なくともパリサイ人の理解を得られるようにと語ったのではないでしょうか。また、ユダヤ教の中にもサドカイ派、パリサイ派と神学的な違いがあったことも分かります。しかし、大切なことは神学的な違いがどうであれ、対決ではなく、共に神様を中心にして生きることだと思います。

神様の願いに生きるパウロ

「主」とはイエスのことでしょうか。主がパウロのそばに立って言われたとあります。文字通り、そのようなことがあったのか私には分かりませんが、少なくともパウロの心の中には、神様を中心にして生きる幸いについて、当時の世界の中心であるローマに行って伝えることが神様の願いだと確信したことは間違いないと思います。

パウロの願いは神様の願いに従って生きることだったと思います。

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