神様の前にへりくだる

人間関係においても、自分は正しいと言い訳や自己主張ばかりするようでは、なかなか人から何かを学んだり、成長することは難しいだろうと思います。やはり自分の意見はしっかりと持ちながらも、人の意見に耳を傾けることができる謙遜な人は成長が早いと思います。

「神を畏れることは知恵の初めである。」と聖書には書いてあります。神様を畏れかしこむというのは、自分は絶対ではない、自分は完全ではない、自分は何かを知っていると思っても、それは一部を知っているに過ぎない、そういうことを認めることができる謙遜な人ということだと思います。それが知恵の初めだと聖書は言っている訳ですが、私はなるほど、その通りだなあと思います。皆さんはどう思いますか。

どんなに自分に能力があっても、どんなに知識があって、その道の権威だと言われても、自分は絶対ではないということを自覚していることは重要なことではないでしょうか。それは決して自己卑下することではありません。自分自身を正しく評価しながらも決して驕り高ぶらないということだと思います。

聖書にはこういう言葉もあります。「自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道はまっすぐにされる。」

聖書では神様のことを主と呼ぶこともあります。自分の知識に頼るなとは、知識なんていらないということではないと私は思います。知識は大切なことです。しっかりと正しい知識を得ることを求めながらも、それで完全だと思うなということだと思います。そうすれば、確かに私たちの道はより安全だと思います。これで完璧と思って過信するなら、足元をすくわれかねないでしょう。

「わたしが目をとめるのは、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」とも聖書にはあります。心砕かれるとは、もう自信喪失するレベルだと思います。「わたし」とは神様ご自身のことですから、神様が目をとめるのは、謙遜で、むしろ自信喪失しているような人だというのですから、驚きですね。それは高慢とか、自信過剰とは全く別世界ですね。そうやって、本当に自分の力ではなく、最善を尽くしつつも神様に頼るということが、実は成功の秘訣なんだと聖書は言っているのだと思います。

いかがでしょうか。宗教としてではなく、キリスト教徒になるかどうかということでもなく、聖書は私たちにとって大変示唆に富んだ内容が含まれていると思うのですが、皆様はどのようにお感じになられますでしょうか。毎日の生活の中で少しでも聖書に親しんでいただければ、それが「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めた私の思いです。