信仰は日常生活の中で発揮するものだと思います
信仰というと、何か日常生活を離れて、山にこもって修行でもするかのような印象を持つ方もいらっしゃるかもしれませんね。時には日常の忙しさから抜け出て、神様にだけ目を向け、人生の目的を明確にすることも必要かもしれません。でも、大切なことはそのまま日常から離れた生活を続けることではなく、また日常の生活に戻って、その中で信仰を発揮することではないでしょうか。
信仰は目的ではなくて、手段だと思います
信仰とは毎日の生活の中で使うものであって、決して信仰そのものは目的ではないと私は思っています。そして聖書が伝える信仰は、私たち日本人の信仰であって、毎日の生活の中で実際的な効力を発揮する素晴らしい信仰だということを皆様に体験していただきたいと思っています。
パウロは教祖ではありません
皆さんもご存知のように、新約聖書の中にはパウロという人が書いた手紙がたくさん収められています。でも、パウロは何かの宗教の教祖ではないし、神様でもありません。聖書もまたパウロの言葉をそのまま神様の言葉だとは言っていないと思います。でも、神様を信じて生きた偉大な人物の一人として、その言葉は大変示唆に富み、私たちにとってとても参考になると思います。
パウロはどんなことを書いているのか
パウロがコロサイという町の、神様を信じる人々に宛てて書いた手紙の中に次のような文章があります。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがは主キリストに仕えているのです。」
私はパウロの信仰に共感します
明らかにパウロは、神様に仕えるというのは、日常の生活を離れて、山にこもって神秘的な生活をすることではなく、毎日の生活の中で、目に見える人々に仕えて生きることだと考えていることが分かります。神様に仕えるとは、何か自分とは関係のない、遠い次元にあることではなく、毎日の生活の中にあるということです。私は日本人の一人として、このパウロの考えに大変共感いたします。
日本人の信仰は神秘体験でも宗教的体験でもない
人は何か神秘的な体験や宗教的な体験を求めます。それによって何か自分が違う自分になれるのではないかという幻想を抱くのでしょうか。でも、日本人の信仰も聖書も決してそのようなものではないと私は考えます。毎日の生活の中で、聖書から先人の言葉を参考にしながら、神様に心を向けて、今置かれている現実世界にしっかりと足をつけて歩んで行くこと。それが日本人の信仰ではないでしょうか。
自分を中心にすることがすべての問題の原因です
そして、全ての問題の解決は、自分ではなく神様を中心に据えることにあることを知っていただきたい。逆に言えば、自分を中心に据えるところに、全ての問題の原因があることに気づけば、なるほどって感じですよね。これが日本人の信仰です。日本人て本当にすごい!そう思いませんか。