日本の神様は聖書の神様

日本の神様は八百万の神様ではないのですか

昨日、日本人の精神性、日本人の信仰は聖書の信仰から来ているということを書きました。でも、聖書の神様は天地万物を創った神様はただ一人だという唯一神だけれども、日本の神様は八百万の神様だから、まったく違う神様ではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。今日はそのことについて少し書きたいと思います。このことが分かると、もう少し神様をはっきりとイメージできるようになるのではないでしょうか。

八百万の神様というのは神様の様々な側面を表しています

確かに古事記、日本書紀を見ると、そこにはたくさんの神様の名前が出てきます。実際には八百万もありませんが、あたかも神様がたくさんいるかのような印象を受けるかもしれません。ところが、よく見てみると、それらの神様は互いに深い関連を持っていることが分かります。つまり、それらの神様はすべてバラバラの神様ということではなく、神様は唯一の神様ですが、その神様の様々な側面を表していると理解することもできると思います。また、中には有力な人物を神様として記したということもあると思われます。

日本人は八百万と言いながら、実際には唯一の神様を崇めていると思います

実は、古事記、日本書紀以前の日本の神道は唯一神信仰であったという記録が残っています。確かに、今ではそれぞれの神社には、いろいろな名前の神様が祀られておりますが、私たちが社で手を合わせる時、その神様がどういう名前の神様であるかということよりも、ただ神様に手を合わせているのではないでしょうか。また、富士山頂でご来光を拝むなどという時も、太陽を拝んでいるというよりも、神様に手を合わせているのだと思います。頭では八百万の神様だと言いながらも、実際には神様は唯一であり、言葉ですべてを説明することはできませんが、すべてを超越したお方を崇めているのが日本人の信仰心ではないかと私は思います。

旧約聖書は唯一の神様ですが、新約聖書は三位一体の神様。古事記、日本書紀も造化三神の神様

また、旧約聖書を見てみると、そこに表されている神様は確かに唯一の神様です。ところが、新約聖書を見ると、そこには父なる神様、子である神様、聖霊である神様というように、あたかも神様は3人であるかのように記されています。そこでキリスト教神学では「三位一体」、つまり、3人の人格ですが、一人の神様だというような説明をしている訳です。実は、古事記、日本書紀を見ると、造化三神と言って、初めの神様は3人であったという記述があります。ここにも聖書との共通点を見出すことができます。

全ての物に神様が宿るという信仰も聖書から来ています

いや、それだけではない。日本人は大きな石とか、木とか、山とか、あらゆる物に神様が宿っていると言って、しめ縄を巻いたり、拝んだりするのではないかとお考えの方もあるかもしれません。しかし、聖書には「神様は天にも地に満ちておられる」と書かれています。どこででも、神様がそこにおられることを感じて、神様に手を合わせるという点において、それは決して矛盾すると私には思えません。

神様を説明することは出来ないでしょう

いずれにしても、神様について、神様とはこうだと人間が説明できると考える方が無理があるのではないでしょうか。神様は畏れ多いお方であり、本当は神様について、このように云々すること自体慎むべきことなのかもしれませんし、実際、日本人はそのように考えてきたのではないでしょうか。聖書にも「神様の名前をみだりに唱えてはならない。」という言葉もあり、日本人としてはとても共感できるのではないでしょうか。

崇高な神様はここにおられることを信じて頭を垂れましょう

いかがでしょうか。日本人の神様は聖書の神様であるということをご理解いただけましたでしょうか。いや、理解するのではなく、崇高な神様はどこにでも満ちておられることを覚えて、どうぞ頭を垂れ、目を閉じて、「神様」と呼び掛けていただきたいと思います。神様は説明ではなく体験であると以前にも書いたとおりです。