霊の目を開いて見る

神様を中心にするための効果的な手段

昨日に続いて、これまでこのブログでお伝えしてきたことを少しまとめてみたいと思います。第3番目には、毎日神様に心を向けて祈り、聖書を読む時間を取ることをお勧めしています。お祈りと聖書を読むことに何か神秘的な力があるということではありません。大切なことは神様を中心にすることですが、そのために祈りと聖書を習慣にすることは効果的だと私は思います。私は毎朝30分くらい、祈って聖書を読む習慣をもう26年くらい続けています。毎朝劇的な発見があるという訳ではありませんが、神様の考えとは何か、神様を中心にするとはどういうことなのかを知り、結果的に私の生き方、考え方に大きな影響を与えていることは間違いないと思います。

習慣は第二の天性

また、その人のタイプにもよるのかもしれませんが、気が向いたら祈るというよりも、毎日の日課にして、祈ること、聖書を読むことが当たり前になってくれば、神様を中心に物事を考えることも当たり前にできるようになってくるのではないかと思います。私はもともとは三日坊主の傾向が強かったと思いますが、毎日旧約聖書を3章、新約聖書を2章ずつ読めば、一年間で旧約聖書を1回、新約聖書を2回読めると知って、実際に一年間で読み終えた時に、その達成感と継続の力を実感したのを覚えています。今では、何でも続けることが大事だというのは私の性質にまでなっていると思います。続きはまた明日書きたいと思います。

新約聖書 ルカの福音書8章26~39節

それでは今日も少し聖書を読んで、私の感じたことを書きますので、皆様の神様を中心とした生活のための参考にしていただければ幸いです。「こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。イエスが、『何という名か』とお尋ねになると、『レギオンです』と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。『家に帰って、神があなたにどんな大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。』 そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんな大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。」

悪霊につかれた男

イエスと弟子たちの活動の拠点はイスラエル北部にあるガリラヤ湖北西のカペナウムという町であったようですが、ここでは舟に乗ってガリラヤ湖の対岸、ゲラサ人の地に渡った時の出来事が記されています。そこはユダヤ人ではなく、おもにギリシャ人の植民都市があったようです。そこで悪霊、汚れた霊につかれた人が現れます。昔は病気や精神病の原因を悪霊の仕業と考えていたのではないかと解釈する人もいるようですが、人から出て豚の中に入ったと記されていますので、文字通り悪霊が存在したことを記録していると考えるのが自然だと私は思います。

霊の存在

霊は目には見えませんが、確かに存在していると私は思います。神様も目には見えませんが、確かに存在しておられる霊的な存在と理解することができると思います。また、私たち人間を生かしているのは霊だと思います。ですから、霊が体から離れると体は動かなくなります。死とはそういうことだと思います。実際にさっきまで息をしていた人が息を引き取る瞬間、何が起こっていると考えることができるでしょうか。肉体的には何も変わっていないのに、どうしてさっきまで動いていた心臓は止まってしまったのでしょうか。さっきまでは何が心臓を動かしていたのでしょう。電池が切れた訳ではありません。霊が体を離れたと考えるしかないと私は思います。

霊が存在するという考えは理性的だと思います

臨死体験をした人たちの話を聞くと、そのことを裏付けることができると思います。自分の体がベッドの上にあり、医師や家族がその周りに集まって話しているのを上から見たと証言する人がたくさんいます。霊が体を離れ、上から病室内を見下ろしていたと考える以外にはないと私は思います。目に見えないので、何か神秘的な感じもするかもしれませんが、霊の存在は理性的な理解だと私は思いますし、聖書と呼ばれる複数の古文書に記されている霊の存在について、文字通り理解するのが最も理性的だと私は思います。

霊の世界に理性を開くことが神様の視点を持つ上で大切だと思います

昔は霊の存在について、このような説明も必要ないほど、当たり前のこととして受け入れられていたのではないかと思います。現代は、目に見えないものは存在しないとか、科学的に証明できないものは存在しないという考え方に毒されてしまったのではないでしょうか。私たちはそのような硬直化した考え方から解放される必要があると思います。霊の存在に目が開かれることによって、神様を中心した視点が大きく開かれることになると思います。

ただ霊的な現象を怖がるのではなく、神様の働きに目を留める

そして、もう一つ。神様の霊もあれば、人間にも霊がありますが、悪霊、汚れた霊も存在しているということが分かります。でも、神様と悪霊の力関係は歴然としていることが分かります。神様の命令は絶対です。悪霊もそれに従う以外にはないようです。だから、悪霊を必要以上に怖がる必要はありません。ただ、せっかくイエスが悪霊を追い出してくださったのに、その地方の人々は喜ばなかったようです。どう考えても、悪霊を追い出してもらって、この男は救われた訳です。でも、神様を中心にしないと、そのことが見えずに恐れるのかもしれません。だから、霊的な現象をただ怖がるのではなく、神様の視点で見ることが大切だと思わされます。お供をしたいと言った男に、イエスはそれを許さず、「家に帰って、神があなたにどんな大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」と言われたのは、そのためだと思います。これは神様の働きだと人々に教えてあげなさいということだと思います。