日本にある聖書の神様の痕跡

「ヨイショ」と言うたびに、神様に思いを向けましょう

「ヨイショ」、「ドッコイショ」という言葉は、「神様の助け」、「神様の助けで押す」という意味のヘブライ語がルーツであることについて昨日書きました。日本人の生活に中には、このように神様を中心として生きて来た痕跡を多く発見することができます。大事なことはその中身、つまり本当の日本人の精神を今こそ取り戻すことだと思います。そこに神の民としての日本人の力の秘密があると思います。どうぞ「ヨイショ」と言うたびに、神様に思いを向けてみてください。

「さくら」という歌をご存知だと思います

日本人であれば誰もが知っている「さくら」という歌がありますが、この中にも日本語では意味が良く分からない歌詞が含まれています。この歌もヘブライ語として読むと驚くべき意味が隠されていることが分かります。ヘブライ語は日本語と同じように子音と母音を組み合わせて1つの音になります。たとえば「さ」は「s」と「a」で「sa」という音を表しています。しかし古代ヘブライ語では母音は表記せず子音字だけを表記しましたので、たとえば「さくら」をヘブライ語のように表記すると、「SKR」のようになる訳です。ところが、この「SKR」という文字は、ヘブライ語では「隠す」という意味の「シェケラ」という単語を表します。

「さくら」をヘブライ語として読んでみると

同じように「やよい」は「YYH」となりますが、これは「唯一の神様」。「いの」「YN」は「迫害される」。「そらは」「SRH」は「耐えて」。「みわた(す)」「MWT」は「死ぬ」。「かぎり」「KGR」は「犠牲として」。「かすみ(か)」「KSM」は「くじ引きにされ」。「くも(か)」「KM」は「取り上げられて」。「におひ(ぞ)」「NOH」は「素晴らしい」。「いずる」「YZR」は「計画」。「いざや」「YZY」は「神の救い」。「みに」「MN」は「捧げ物」。「いか(ん)」「YK」は「決める」。

「さくら」に隠された聖書のメッセージ

そうすると、「さくら」という歌はヘブライ語として読むと、「隠れてしまった。唯一の神が迫害を受け、耐え忍び、死んで、犠牲となり、くじで引かれ、取り上げられてしまった。素晴らしい神の計画である救い。その捧げ物が成就した。」と解釈することができます。これはおそらく、日本語もヘブライ語もできる人が作った歌であろうと思われますが、人となった神様であるイエスという人物が私たちの救いのために十字架につけられて死んだという聖書の内容であることは間違いありません。日本には太古の昔にすでに聖書がもたらされていた証拠だと思います。(「日本とユダヤのハーモニー」から学ばせていただきました。)

日本人の神様は聖書の神様です

聖書に記されている神様は唯一の神様であり、全世界の神様です。決して何かの宗教の神様ではありません。そして、私たち日本人は太古の昔から、この神様を中心にして生きてきたのです。そのことを知っていただきたいのです。どうぞ毎日時間を決めて、神様に心を向けて祈り、そして聖書を読んでいただきたいと思います。それでは、今日も聖書の続きを少しご一緒にお読みいたしましょう。

新約聖書 ルカの福音書9章46~50節

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。』ヨハネが答えて言った。『先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。』 しかしイエスは、彼に言われた。『やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。』」

誰が一番偉いのか

私たちの先生はただの先生ではなく、旧約の預言者たちが預言していた人となった神様であるということが分かってきたので、弟子たちの間で誰が一番偉いかという議論が持ち上がったのかもしれません。でも、それは人間を中心とした考えであって、神様の思いを中心とした考えではありません。それでイエスは弟子たちに言われたのではないでしょうか。子供は人間的に見るなら取るに足らない者、少なくとも誰も一目置いたりはしないと思いますが、そういう人間的な判断をしないで、イエスのゆえに受け入れるなら、それはイエスを受け入れることであり、それはすなわち神様を受け入れることになると教えたのではないでしょうか。

人間の視点ではなく神様の視点

あなたがたすべての中で一番小さい者。つまり、一番取るに足らないと思われている者。誰が偉いのかということなら、そういう者が一番偉い。これが神様の視点だということではないでしょうか。そんな視点でもう一度考えてみたいと思いますが、そもそも誰が偉いのかという私たちの考えそのものが問題なのかもしれませんね。イエスの弟子だということで、何か特別に偉いということではないということを教えようとしたのかもしれません。

ヨハネはそれでも自分たちのグループは特別だと考えたのでしょう

するとヨハネという一番若い弟子が答えて言いました。「私たちの仲間ではないので、やめさせた。」 しかし、イエスはやめさせることはありませんと言われました。いかがでしょうか。大切なことはどのグループに所属しているかということではありませんよね。もちろん、何の宗教に所属しているかということでもありません。イエスは神様だと知って、イエスを中心とした生活をすること。それが大切ですよね。それは神様を中心とした生活をすることに他なりません。誰であっても、どこに所属していようと、していまいと、大切なことは神様を中心とした生活をするということではないでしょうか。