聖書の奇跡をどう考えるか

視点が変わると見え方が変わりますね

同じ物事でも視点が変われば全く見え方が変わります。最近、私は体力維持のために、また幼児の運動機能の発達のためにも、歩くということが大切であり、基本だということを聞いたので努めて歩くようにしています。エスカレーターがあっても階段を使うようにしています。しかも、まったく苦に感じないから不思議ですね。以前だったら、どうしてここにはエスカレーターがないんだろう。サービスが悪いなあ、なんて言っていたかもしれません。今は、なんでエスカレーターなんか付けるんだろう。ない方が運動になるのに、なんて考えている自分がいます。同じ物事でも視点が変わるとこうも変わります。皆さんもそんな経験はありませんか。

神様の視点が分かると人生の見え方が変わります

人生も世界も、人間中心、自分中心に見ているのと、神様を中心に、神様の視点から見るのでは全く見え方が違ってきます。これまで不幸だと思っていたことが、そうではないということが分かったり、なんで自分はこの世に生まれて来たのか分からなかったのに、神様の側には目的があったから生まれて来たということも私は見えるようになりました。聖書と呼ばれる一連の古文書の中にこのようなエピソードがあります。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』 イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」 目が見えないという状況も見方でこんなに変わります。

私は30歳の時に分かりました

私自身にとって、この視点の転換は180度の人生の転回をもたらしました。それは私が30歳の時のことでした。この視点の転換によって私はクリスチャンになりました。これだけでも驚くべきことだったと思います。私自身にとっても、私の回りの人にとっても、私はおよそクリスチャンとは縁の遠い存在だったと思います。

大切なことは視点の転換だった!

当初、私はクリスチャンになることで、このような人生の転回がもたらされたと思っていましたが、今、振り返って分かったことはそうではなかったということです。クリスチャンになったから、人生が180度転回したのではなく、視点が変わったから人生の転回がもたらされたのです。その結果として私の場合、クリスチャンになりましたが、必ずしもクリスチャンにならなくても良いと思います。

本来、神様の視点は人間として当たり前のこと

クリスチャンになることには抵抗があるとか、色々事情があってクリスチャンにはなれないという方もあると思います。でも、本来神様の視点を持って生きるということはクリスチャンであるかどうかということとは関係ないことだと思います。人間として、もっと言えば日本人として、それは当たり前の生き方だと思います。どうぞキリスト教とか、クリスチャンということとは関係なく、神様を中心とした生活をしていただきたいと思います。それが人間の本来の生き方だと私は思います。その時、生きるって意外と悪いもんじゃないとか、人間て捨てたもんじゃない、なんて思うようになると思います。私がそうであったように。

今日も少し聖書から引用します

昨日の続きを少し読んでみましょう。こんなエピソードが記されています。「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、『大預言者が私たちのうちに現れた』とか、『神がその民を顧みてくださった』などと言って、神をあがめた。イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。」

聖書の超自然的出来事の記録をどう受け止めるのか

人となった神様であるイエスというお方によって著しい奇跡が行われたという記録が複数の古文書に記されていて、それらが聖書として収められています。このような超自然的な出来事の記録をどのように受け止めたら良いのでしょうか。人間的な視点で見るならば、あり得ないということになるだろうと思いますが、神様の視点から見たらどうでしょうか。文字通り起こったと受け止める方がむしろ自然ではないかと思います。昨日の箇所にもあったように、そのおことばには権威があるのですから、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と命じれば、当然その通りになるのが当然でしょう。もちろん私たち人間にはそのような権威はありませんが、この方にはそのような権威があり、実際そのようなことが起こったと数々の古文書にその記録が残っているのでしょう。このような出来事を目の当たりにした人々は恐れを抱き、神をあがめ、イエスについてのこの話はユダヤ全土と回りの地方一帯に広まったと記録されています。

神様の視点で生きる

人間が全てと考えて生きるのか、このような権威を持つ神様は確かにおられるという視点を持って生きるのか。それによって私たちの生き方は大きく変わらざるを得ないと思います。この人となった神様であるイエスを目の当たりにした人々の末裔がA.D.3世紀頃には日本に次々と渡来し、日本の文化、伝統の礎を築いたことが分かっています。神様の視点を持って生きる。これが日本人の力だったのです。どうぞ皆様も今、この神様の視点をご自分のものとされ、そんなことはあり得ないという人生ではなく、そんなことが起こり得るという人生を送って欲しいと願っています。