神様の権威とは

必ずしも年齢によりません

神様の願いは、私たちがいつまでも自己中心的な子供のままではなく、大人に成長することだと思います。しかし、それは必ずしも年齢にはよらないようです。3歳の子供でも、お父さんとお母さんの言う事を聞かないことは良いことですかと聞けば、それは悪いことだと分かります。それなら、お父さんとお母さんの言う事を良く聞いてください。それは神様が喜ばれることですと教えれば、そのようにしようとします。ところが、高齢になってなお我儘で自己中心的な人もいます。そんな老人にはなりたくないですね。いつも神様の願いを中心にして生きることを心がけましょう。

いつも神様を中心にするために

それはなかなか1度で身につくことではないと思います。だから、いつもいつも心がける必要があると思います。そのための方法として、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、毎日神様に思いを向けて祈り、聖書を少しづつ読むことをお勧めしています。それはお勤めではありません。それをすればご利益があるということではありません。あくまでも神様の願いを中心にして生きるための手段です。大切なことはいつも神様の願いを意識して生活することです。

参考までに私のお祈りです

私は毎朝30分くらい神様に思いを向けて祈り、聖書を読みますが、毎食前にも短く祈るようにしています。朝食前には「天の父なる神様。今日もこうして食事を備えて私たちを養ってくださっていることを感謝します。どうぞこの食事を祝福して、私たちの体と健康を強め、今日もあなたの栄光のために用いてください。いつも神様の霊によって私に確信を与えて、あなたの御心に導いてください。あらゆる悪、誘惑、攻撃から守ってください。」と祈ります。

昼食前、夕食前にも短く祈ります

昼食前は「お昼の食事をありがとうございます。どうぞこの食事を祝福してください。午前中も守ってくださったことを感謝します。午後もお守りください。」と祈ります。そして、夕食前は「今日の一日もお守りくださったことを感謝します。夜の食事をありがとうございます。どうぞこの食事を祝福して、今日の疲れも取り去り、明日の力を与えてください。」と祈ります。だいたいこのようなお祈りを短くしています。大したお祈りではありませんが、いつも神様を意識することに役立っていると思います。どうぞ参考にしてみてください。

神様の視点を知るために聖書は大変参考になります

聖書は神様の視点を知る上で大変参考になります。どうぞ毎日読み続けてみてください。大切なことは実際に神様の思いを中心にして生活することですが、そのために聖書から神様の視点について知ることはとても参考になります。今朝、私が読んだ箇所と私の考えたことを書いてみますので、どうぞ皆様の参考にしてみてくださいね。

今朝、私が読んだ箇所から

昨日の箇所に続いて、このようなエピソードが記されています。ルカの福音書7章1~10節です。「イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。『この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。』 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。『主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。』 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。『あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。』 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。」

権威とは何か

人となった神様であるイエスという人物のことを聞いたローマの百人隊長が、おことばをいただければ、病気は必ずいやされると言ったことを、りっぱな信仰だとほめられています。この百人隊長はユダヤ人ではありませんでしたが、軍人でしたので、権威とは何かということを良く理解しているようです。つまり、上官の命令というのは絶対であり、力を伴ったものです。説得力があるとか、内容が深いとか、そういうことではありません。もちろん、参考でもありません。絶対です。それが権威というものです。このイエスという人物は神様であり、神様というのはこの世界における最高権威者であるということが分かれば、そのおことばさえいただければ、全てものはその通り従うと考えていたのでしょう。それはりっぱな信仰だとほめられ、実際にしもべの病気はよくなったと記されています。

神様は権威あるお方。それが日本人の信仰です

皆さん、神様は参考ではなく、絶対的権威者です。単にその教えが素晴らしいということに留まらず、神様はこの世界の最高権威者であり、そのことばには力がある。この方のおことば一つで病気もいやされる。神様を中心にするとは、神様をこのように権威者として受け入れるということに他なりません。これが日本人の信仰だと思います。

キリスト教の権威ではなく、神様の権威です

それはキリスト教が権威ある宗教だということではありません。宗教に権威があるのではなく、神様を権威あるお方として受け入れる信仰が大切なのです。確かに聖書をさらに読んでみると、パウロという人がこの信仰をアンテオケという所に伝え、やがてローマに伝わり、西欧世界で発展し、後にキリスト教と呼ばれるようになったことは事実だと思いますが、キリスト教とは別のルートでこの信仰は日本に伝えられ独自に発展したことが歴史を調べると分かります。そもそもキリスト教徒であるかないか、ユダヤ人であるかないか、そういうこととは関係なく、神様を権威あるお方として受け入れる信仰こそが大切なのであり、それはすでに太古の昔に日本に伝えられ、発展し、日本人の信仰、文化、伝統を形作ったのです。今、日本人として、この信仰の力を毎日の生活の中で発揮していただきたい。それが私の願いです。