「神のみことば」という言葉

聖書は全て「神のみことば」というのは誤解です

「ことば」に「み」をつけて、聖書は「神のみことば」であるとクリスチャンは言いますが、そこには2つの誤解があると思います。1つは聖書のことばは全て「神のみことば」であるという誤解です。読めば分かりますが、聖書は全て「神様のみことば」という訳ではありません。聖書には神様の言葉もありますが、人間の言葉もあります。どうやって区別するのかとおっしゃる方もいるのでしょうか。読めば明白だと私は思います。「神はこう言われた」とあれば、それは神様の言葉だと思います。そうでない言葉まで、「神様のみことば」にすべきではないと思います。

「神のみことば」は必ずしも永遠普遍ではありません

もう一つは、「神のみことば」は永遠普遍の言葉であるという誤解です。神様の言葉だからと言って、必ずしも永遠普遍ではないと思います。もちろん、永遠性、普遍性が全くないとは思いませんが、あくまでも第一義的には、ある特定の時代の、ある特定の人々に語られた神様の言葉であると理解することが大切だと思います。私がAさんに語る言葉とBさんに語る言葉は違います。ある人にはもっと優しくしなさいと言うかもしれませんが、ある人にはもっと強くなりなさいと言うかもしれません。ある特定の状況の中で語った私の言葉を普遍化されても困る訳です。

聖書を教典化することが分裂と紛争の原因となっています

それでも聖書の一字一句の全てを「みことば」と呼んで、それを教典とすることは犯罪ではありませんし、信教の自由はあると思いますが、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、そのような理解はしていないということをはっきり申し上げておきたいと思います。これまで、聖書は全て「神のみことば」であると受け止め、その中に神様の絶対的な御心が記されていると理解することによって、どれだけ世界に分裂と紛争をもたらし、時には侵略や殺人までも肯定するようなことが行なわれて来たことでしょうか。このような考え方は今も深刻な分裂と紛争をもたらしています。時にはクリスチャンどうしの間でさえ、聖書の解釈をめぐって分裂があるほどです。

一神教が排他的な訳ではない

一神教は排他的であり、分裂と紛争をもたらすが、八百万の神様を信じる日本人にはそういうことがないと理解されることが多いようですが、それは違います。一神教が排他的なのではなく、聖書を教典化するところに、神様を一つの教えと理解するところに排他性が生じるのだと私は思います。神様は生きておられるお方であり、決して固定化された教えではないというのが私の実感です。これはクリスチャンでない方にとってはむしろ当たり前のことだと思いますが、キリスト教の長い歴史の中で、聖書に関するこのような誤解が重大な問題の原因となっていると思いますので、「日本人の信仰と聖書について考える会」では敢えてこのことを言わせていただいております。

新約聖書 ルカの福音書9章28~36節

それでは今日もルカの福音書の続きを少しお読みいたしましょう。「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。『先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』 ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい』と言う声がした。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。」

神の姿としてのイエス

これは明らかにイエスが神様の栄光の姿を現された様子だと思います。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と弟子たちに問われ、「旧約聖書が預言するメシヤです」とペテロは答えました。そして、イエスは「神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」と言われましたが、それはこのことを指していたのかもしれませんね。ペテロとヨハネとヤコブは神様の栄光の姿としてのイエスを目の当たりにしたのです。そこにはモーセとエリヤも現れました。ユダヤ人であれば何を意味しているのか良く分かったと思います。モーセは神様の言葉を授かったユダヤ人の代表とも言える人物であり、エリヤは神の言葉を取り次ぐ預言者の中の代表的な人物です。この二人は旧約聖書を代表する人物と言っても良いと思います。すると雲の中からモーセでもない、エリヤでもない、「このイエスこそわたしの愛する子、わたしの選んだ者。彼の言うことを聞きなさい」という声があったのです。

イエスの言葉

この人となった神様であるイエスという人物が何を語り、何をされたのか。それは私たちが神様を中心とした生活をする上でとても重要なことだと思います。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の人たちがそれを記録した文書が、福音書と呼ばれる古文書です。このイエスという人物の言動に目を止めながら、聖書を読み、神様に思いを向けて歩んでいくことが大切だと思います。