神様を中心とすることは人間本来の生き方

そこに全ての問題の解決があります

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、神様を中心とした生活を最も大切なこととしてお伝えしています。それが人間本来の生き方であり、私たちが抱える全ての問題の解決です。たとえば、病気や悩みを抱えていたとします。自分が中心であれば、どうして私がこんな苦しみを受けなければならないのかと問題解決どころか、現実を受け入れることも難しくなります。目には見えませんが、神様は全てを支配しておられるお方です。私が苦しむことを神様は喜んではおられませんが、神様が許可された苦しみであることは間違いありません。神様を中心にした時に、初めて「神様。なぜこの苦しみを私にお許しになられたのですか。」と祈り求めることができます。こうして現実を受け入れ、その積極的な意味を求めることができるようになります。

答えは人それぞれだと思います

もちろん、その答えは人それぞれだと思います。私もそうやって30歳の時に神様を中心とした生活を始め、今日まで24年間生きて来て、私が抱える全ての問題の解決を与えられて来ました。その答えがそのまま全ての人に当てはまるのではなく、神様を中心とすることで、それぞれ自分の答えを見出して行くことが大切だと思いますが、私の経験や答えも参考にはなるのではないかと思いますので、これからもこのブログで私が与えられた答えも書いていきたいと思います。どうぞ参考にしてみてください。

これこそ人間本来の生き方

しかし、問題解決だけではありません。神様を中心とするのは、それが人間本来の生き方だからです。自分中心の生き方は結局は自己満足に過ぎず、必ずこれで良いのかという迷いが出てきますが、神様を中心として生きるなら、これで良いという揺るぎない平安を持つことができます。私たちの生きる目的は神様の中にのみあるからです。そこで、いつも神様を意識することができるように、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈ることをお勧めしているのです。

聖書は神様について知ることができる唯一の古文書

また、毎日聖書を読むことを勧めています。なぜなら聖書に記されている神様こそ天地万物を創られた唯一の神様であり、私たち日本人が太古の昔から崇めて来た神様だからです。神様が何をなされたのか、どのようなお方なのかが記録された文書は聖書と呼ばれている複数の古文書以外にはありません。それを読むと、最初の人間であるアダムとエバは神様から退けられてしまいましたが、神様はイスラエル民族を選んで、ご自身を世界中に示されました。それはイスラエル民族だけでなく、イスラエル民族を通して全世界がもう一度神様を中心に生きることができるようにするためだったことが分かります。

イスラエル民族はアジア諸国に散らされた

そのイスラエル民族はパレスチナの地を追われ、多くはアジア諸国に散らされて行きました。ですから、アジア諸国に伝えられている神様は聖書の神様である可能性が非常に高いと私は思います。特に日本はその後外国からの侵略も少なく、現代に至るまでイスラエル人の信仰、習慣、文化が色濃く残されており、ここ数日ご紹介させていただいているように、言葉や歌の中にイスラエル人の言葉であるヘブライ語を発見することができることは、その一つの証拠だと思います。どうぞ何かの宗教の本ということではなく、神様について知るために聖書をお読みください。それでは、今日も聖書の続きを少し読みましょう。

新約聖書 ルカの福音書9章57~62節

「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』 すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』 イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』 しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』 すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』 別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』 するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」

人となった神様は何を語ったのか

イエスは人となった神様ですから、この人が何を語ったのかということは重要だと思います。しかし、直接私たちに語っている訳ではありませんので、その前後脈絡の中で何を言われたのかを理解することが大事だと思います。ここには3人の人とイエスとのやり取りが記録されていますが、実際には多くの人とのやり取りがあったのかもしれません。その中で代表的なものが記録されたのかもしれません。名前が記録されていないので、そんな気がします。

ただ楽な生活をしたいのか

「どこにでもついて行きます」と言う人たちがいたのでしょう。イエスの言葉を見ると、断っている訳ではありませんが、覚悟は出来ているのか、人間的な思いでついて来たいと言っているのであれば、決して楽ではないということを言っているのかもしれません。いかがでしょうか。私はただ楽な人生を送りたいと思っている訳ではありません。意味のある人生を送りたいと思っています。それは神様を中心にする生活にあると思います。

それぞれ神様からの使命があると思います

イエスの方から「ついて来なさい」と声をかけることもあったのでしょう。ある人は「まず、父を葬ることを許してください。」と言いました。ついて行かないとは言っていません。葬儀も大事なことだと私は思いますので、イエスはどういう意味でこう言われたのか当事者でないと分かりませんが、この人にとって「神の国を言い広めること」は神様から与えられた使命であり、それを何かと理由をつけて後回しにしているとすれば、後で後悔することになるだろうと思います。

心を決めて前進する

自分からついて行きますと声をかけてくる人もいました。でも、その前に一度家に帰ってあいさつをしてくると言う人に、「手を鋤にかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」と言われました。やっぱり挨拶くらいはしても良いのではないかと思うので、全ては分かりませんが、いつまでも後ろを振り向いているような生き方ではいけないことは確かだと思います。神様を中心とした生活をすると心を決めて前進する。それが神の国にふさわしい、つまり神様に喜ばれることだと思います。