人生の目的は明快だと思います

様々な人が様々なことを言っています

今日は「人生の目的…それは『生きる』こと。無気力を解消し、力強く生きるための法則」と題するブログ記事を紹介して、「人生の目的」について考えてみたいと思います。このブログはこのように始まっています。

人生には目的がある

人生は時として、道を見失うことがあります。しかし、人生は終わりません。苦悩しながらも一歩ずつ進んでいくのが人生と言えます。そして、その人生の道標になるものが人生の目的です。人生の目的を見失うことは、広い海の中で進む方向を見失ったと同じ事になります。人は目的があるからこそ、進んでいけるのではないでしょうか。

目的は大切です

この方は、人生には目的があるということを前提にして、それは大切だと言っています。それでは、この方が言う「人生の目的」とは何でしょうか。このように言っています。

生きること

「いきなり、本筋を話しますが人生の目的は『生きること』と言えます。もっと具体的にいうと生きて何かに良い影響を与えることです。」

生きていること自体に価値がある

さらに、こう言っています。「この世界に存在するものは、すべて必要とされています。例えば害虫と呼ばれるものも、人間にとって不都合なだけであって、自然にとっては大事な一要素です。その虫を餌としている他の生物も存在します。・・・人間もその例に外れません。しかも人間の行動によって作り出されるものは多大なバリエーションがあります。つまり生きていれば行動ができ、良い影響を与えられるチャンスがあるということなので、生きていること自体に価値があるのです。」

そう言える根拠は何か

どうしてそう言うことができるのでしょうか。その根拠は何かということについて、この方は何もおっしゃってはいません。この自然界を見れば、そこには目的があって、目的があるから存在していることが分かると思うということだと思いますが、私は神様がそのように造られたからだと言うことができると思います。

「神様」という言葉は分かりやすいと思います

この方も目には見えませんが、この世界は単なる偶然ではなく、何かの意志というか、意味のようなものを感じて、このように書かれているんだと思います。それを「偉大な意志」とか、「何か」とか、難しい言い方をされることもありますが、「神様」は子供でも分かる言葉ではないかと私は思います。

神様を中心にする

だからその意志であり、意味であり、目的である神様を中心にして生きることが大切だと思います。神様ではなく、利己的で自分さえ良ければいいという思いを中心にすれば、私たちは神様の目的から外れて、生きてはいますけれども、不幸の連鎖を生み出すようになってしまうでしょう。

ただ生きれば良いのではない

ですから、私たちはただ生きれば良いのではなく、神様の願いや思いを中心にして生きることが大切だと思います。それは子供でも良く理解することができる明快なことだと思います。宗教をやることではありません。日本人が太古の昔から大切にして来た生き方を大切にすることだと私は思っています。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 ルカの福音書24章13~32節

ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」 すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。

それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。

事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

それで、彼らが「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

復活したイエスが現れる

ここには復活したイエスが二人の弟子にその姿を現してくださったという出来事が記されています。しかし、最初はそれと分からず、パンを裂いて渡された時にそれと分かり、次の瞬間には見えなくなったと書かれています。それは大変不思議な出来事です。文字通りのこのようなことがあったということなのか、私には確かめる術もありませんが、このような霊的な現象というのは否定できないのではないかと私は思います。

単なる知識ではなく出会い

でも、目を留めたいのは、人となった神様が人類の救いのために十字架について復活するということは知識として知っていたとしても、復活したイエスに出会うまで、二人の弟子も理解することができなかったということです。

神様を中心にすること

私自身、このような神秘的な体験をしたことはありませんが、神様を中心とした生活をするというのは、単なる知識ではなく、信仰の目が開かれて、確かに神様は今ここに生きておられるという現実を知ることではないかと思います。それは難しい哲学ではありません。宗教でもありません。子供のようになって、神様を中心にして生きることだと思います。それが人生の目的だと思います。