日本人の宗教観について調べてみました
水曜日のテーマは「キリスト教、宗教」です。日本人の宗教観、日本人の宗教心についてインターネットで検索して調べてみました。多くの方々が意見を述べておられますが、だいたい以下のような内容が書かれているようです。
日本人の信仰する宗教は何ですか
多くの日本人は、信仰する宗教は何かと問われると、困惑したり、「私は無宗教です」と答えることが多く、これを聞いた外国人は、日本人は真摯な宗教心を持っていないと誤解する。しかし、日本人は真摯な宗教心を持っており、その宗教心は民族神道あるいは民間神道といってもよかろうが、それが源ともなる心をもっている。 ただ、日本人は意識していないだけなのである。
全ての神仏は本質的に同一
また日本人は、本質的には神も仏も同一だと考えている。一般的には、結婚式や祭事は神道形式によるし、葬式や仏事は仏教形式による。最近ではキリスト教形式による結婚式も多いが、人々はそれを自然に受け入れていて、特に違和感はない。日本人にとって神とは、すべての神神、すべての御仏なのである。
特定の宗教について
また日本人は、あまりにも一つの宗教や宗派へ帰属する意識の強い人に対しては、一定の距離を置いており、他の宗教や宗派についても寛大で、時には無関心でさえある。
日本人独特の宗教観
以上、まとめてみると、日本人は日本人独特の信仰心を持っている。それは何か特定の宗教ではなく、全てを超越したありがたい方を崇める信仰と言える。むしろ特定の宗教の教えのみを信仰することは敬遠するか無関心であり、寛大である。
自然な信仰心
もちろん、人間はもともと人間を超越する方を崇める思いを持っているので、誰に教えられなくても自然に神を崇める思いを持つと思います。ですから、このような日本人の信仰心は自然に発生し、発展して来たと考える人もいます。私もそれを否定しませんが、そのように自然に神を崇める古代日本の人々に聖書の信仰を持つイスラエル系の渡来人の影響もあったのではないかと私は考えています。
人間本来の信仰心
いずれにしても、日本人が太古の昔から崇めて来た神様も、聖書の神様も、何か特定の宗教の神様ではなく、それは人間が自然に崇める神様に他ならないと私は思っています。何か特定の宗教を信仰することが正しい宗教観のように外国では考えられ、日本人は変わっていると捉えられやすいのですが、私はむしろ日本人の宗教観こそが人間本来の宗教観であり、聖書の宗教観ではないかと思っています。
神様を中心とした生活
しかし、私はこのような宗教観を持っている日本人が必ずしも神様を中心とした生活をしないで、人間中心の生活をしていることを危惧しています。大切なことは神様を中心とした生活をすることだと思います。人間を中心とした身勝手な生活はやがて滅びをもたらしてしまうと思います。今こそ、何か特定の宗教を信仰することではなく、日本人が太古の昔から崇めて来た神様を中心とした生活を取り戻していただきたいと思っています。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 ルカの福音書21章1~4節
さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたいくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
エルサレム神殿にも賽銭箱があった
日本の神社に賽銭箱があるように、エルサレムの神殿には献金箱があったようです。ここにも日本の神社とエルサレムの神殿の共通点を見ることができます。その献金箱が見えるところにイエスはいました。見ていると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていました。また、ある貧しいやもめがレプタ銅貨二つを投げ入れました。銅貨と言っていますので、10円玉2枚という感じではないかと思います。
生活費の全部
イエスは、このやもめは誰よりたくさん入れたと言われました。金額ではなく、イエスはその心を見ておられたのだと思います。それは生活費の全部だと言われています。全部です。レプタ銅貨1枚は残しておいても良かったかもしれませんが、2枚とも投げ入れてしまいました。この女がどれだけ神様に頼り、神様を中心とした生活をしていたのかを伺い知ることができるのではないでしょうか。
羨ましいくらい
神様を中心とするというのは、このように生活の全てにおいて神様に頼ることを意味しているのではないでしょうか。有り余る中の一部のお金や時間、思いを神様に向けるだけではなく、この女のように全面的に神様を中心にしたいものだと思います。お金はなかったかもしれませんが、この女はどれだけ喜びに満ちた生活をしていたことだろうと思わされます。羨ましいくらいではないでしょうか。