ユダヤ人にも見られる日本の独特な習慣

日本人とユダヤ人の不思議な共通点

月曜日のテーマは「日本とイスラエル」です。日本人の信仰、文化、伝統、価値観には古代イスラエル系渡来人と聖書の信仰の影響があると考えられます。聖書の神様は決して外国の宗教の神様ではなく、日本人が太古の昔から崇めて来た神様であり、何か特定の宗教の神様ではないということを知っていただきたいと思っています。今日も坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」から日本人とユダヤ人の不思議な共通点についてご紹介いたします。

清めの塩

私がイスラエルに滞在していて、ユダヤの習慣で神道との繋がりを最も強く感じたのは、「塩を用いた清め」である。ユダヤ教の安息日には、家族揃って儀式を行う。歌を数曲歌って、祈りの言葉を皆で唱える。夕食に入る前に、ハラーと呼ばれる三つ編みの形をしたパンを祝福し聖別する儀式が行われるが、その時にハラーに塩を振りかける。

ユダヤ教では清めのために塩を用いる。タナフ(旧約聖書)にこう書かれていると教えられた。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」(旧約聖書レビ記2章13節)

その時に私の脳裏に浮かんだのは、神社などで神前に捧げられる供物の横に盛られた塩のことだ。ユダヤ教では穢れたものを塩で清めるという考え方があるらしい。タナフにこう書かれている。これはアビメレクという人が敵の町を征服した時の場面である。「アビメレクは、その日一日中、その町と戦い、これを制圧し、町にいた民を殺し、町を破壊し、塩をまいた。」(旧約聖書士師記9章45節)

これは塩をまくことによって、流血を清める意味があるという。今日でもユダヤ人は、新しい家に住む時に塩をまく人々もいるという。これは盛り塩を入口に盛って店や家を清めたり、お葬式で「お清め」として塩を配る日本の習慣によく似ている。子供の頃、商売をしていた私の父が、店先で誰かと大喧嘩をした後、奥にいた私に向かって、「塩をまけ!塩!」と言った。日本でも嫌なものや不浄なものには塩をまく習慣がある。(坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からの抜粋は以上です。)

日本の文化、伝統、習慣、信仰に聖書の影響

塩をまいて清めるのは、日本だけの独特な習慣かと思っていましたが、どうやらそれは聖書の影響のようです。日本の文化、伝統、習慣、信仰は古代イスラエル民族と聖書の信仰に由来していると考えられる一つの証拠ではないでしょうか。日本人が太古の昔から崇めて来た神様は、聖書に記されている神様だと考えて良いと私は思っています。それでは今日も聖書の続きを読んで、私たちの神様に思いを向けましょう。

新約聖書 ルカの福音書20章41~44節

すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしが、あなたの敵を、あなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」

イエスの質問

律法学者、祭司長たちはイエスの言葉尻をつかもうと、イエスを試して質問したり、またサドカイ人たちもイエスを論破しようとして質問したりしましたが、イエスの見事な返事に驚嘆するしかありませんでした。彼らはもう何も質問する勇気がなかったとあります。そこで逆にイエスが彼らに言われた言葉が今日の言葉です。

ダビデの子。キリスト。主

キリストはダビデの子と呼ばれていました。どうしてキリストをダビデの子と言うのか。ダビデはキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストはダビデの子なのか。人々はこの質問をどのように受け止めたのでしょうか。ダビデの子。キリスト。主。これらの言葉が頭の中をぐるぐると回るような気がします。イエスは何を問われたのでしょうか。

これはどういうことなのか

キリストとは人となった神様のことです。やがてダビデ王の子孫に人となった神様が生まれると言われていました。それでキリストはダビデの子と呼ばれていたのです。そのキリストをダビデ王は主と呼びました。つまり、やがてダビデ王の子孫から生まれる、人となった神様のことを、ダビデ王は神様と呼んだ。これはどういうことなのかとイエスは人々に問われたのではないでしょうか。

イエス自身を指して言っているのではないか

それはイエスご自身のことを指して言っているのではないかと私は思います。このイエスこそダビデの子孫に生まれる、人となった神様であり、ダビデ自身も主と呼んだお方であるということではないでしょうか。イエスこそ目に見えない神様が人の姿を取って、この地上に来てくださったお方であるということではないでしょうか。イエスは私を見た者は神を見たのだとも言われました。

イエスこそ日本人の神様

イエスを崇め、イエスの思いを中心にして生きること。それは神様を中心として生きることだと私は思います。それは決してキリスト教徒になることではありません。イエスこそ私たち日本人が太古の昔から崇めて来た神様だということだと私は思います。