恋愛、結婚において神様を中心にするとは

恋愛、結婚の悩み相談

土曜日のテーマは「恋愛、結婚」です。神様を中心に恋愛、結婚を考えることが大切だとお伝えしています。今日は恋愛、結婚の悩みに専門家が答えるというサイトの質問と回答を1つご紹介して考えてみたいと思います。「彼女で終わる女性と結婚まで進める女性の違いは何?」という質問です。

結婚に進むべきか

28歳の男性。30歳の女性と1年くらいお付き合いをしているそうですが、簡単に言えば性格や価値観に違いがあり、数か月に1回は別れ話が出る。自分は「この人と結婚できるかな?」という気持ちで付き合っているし、2人でいる時間は楽しいと感じている。彼氏彼女とはいえ、今まで何十年も別々に生きてきたわけだから、結婚するにあたり、何らかの我慢は必要なのだと思う。結婚生活は我慢だとも聞きますし。彼女で終わってしまう方と結婚まで進める方との違いは何なんでしょうか?という質問です。

専門家の回答

これに対して、専門家と言われる方がこう回答しています。「彼女と一生、一緒にいたい」
「彼女を幸せにしたいと、心から思える」・・・そんな風に感じるときは、結婚へ進んでも間違いはないと思っています。どんなに彼女と性格が違っていても、協力しあって、彼女となら何でも乗り越えられるとか、…、結婚後の生活に前向きなイメージが強く持てるときなども、結婚へ進んでもいい要素になるかもしれません。

二人で努力することが必要

逆に、不安に思っている彼女の性格を、あなたが受け止めていけるという自信がないならば、結婚は難しいのではないかと思います。また、何も努力をしないで、相手との関係をもっといいものにしようとするのは不可能です。二人で話し合ってみたり、二人で努力したりすることが大事になってきます。そういうことを実際にやってみると、次第に相手が自分にとってどんなパートナーなのか、見えてくる部分が多くあると思うのです。

一緒に協力して努力できる相手なのか

そこで見えてきた彼女が、一緒に協力して努力ができる相手だと思えないなら、結婚してもうまくはいかないと思います。(サイトからの引用は以上です。) その通りだと私も思います。一緒に協力して努力できない相手とは結婚しない方が良いと思います。

結婚の目的を共有する

そのためには、結婚の目的を明確にし、その目的を二人で共有することができるかどうかを確認することが大事だと私は思います。確かに結婚すれば、お互いに忍耐や寛容が必要になることもあると思いますが、何のための努力なのかということが明確になっていればその絆は強いと思います。人生の目的を共有し、そのための良いパートナーになることを二人とも願うのなら結婚すべきでしょう。それが神様を中心とした結婚だと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心とすることに思いを向けてみましょう。

新約聖書 ルカの福音書20章20~26節

さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」 イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」

彼らは、「カイザルのです」と言った。すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」 彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。

人間的な策略

「彼ら」とは、祭司長、律法学者、体制側の人々のことです。カイザルとはローマ皇帝ですから、ローマに税金を納めることは正しいことなのかという質問です。正しいと答えれば、ユダヤ人の反感を買うことになり、正しいことではないと答えれば、ローマに対する反逆罪ということで訴えようという魂胆だと思います。

神様の思いを求めているのか、それとも自分の思いを通したいだけなのか

だいたいこのような企てそのものが自己中心であって、神様を中心としたものではないことは明らかだと思います。本当にイエスが言っていることが正しいと思うのであれば、それを中心にしなければならないと思います。人間的な策略を立ててまで、ただ自分の思いを通したいというのは良くないことだと思います。もちろん、神様の思いに従いたいと願って、何かを計画したり、行動したりすることはあると思いますが、そうであれば、その結果は神様に委ねることが大切だと私は思います。

それは両立することです

イエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答えました。それは対立する概念ではなく両立する概念だということを思わされます。神様を中心にする生活は決して何か特定の立場を主張して、他のグループと対立することではないと思います。ローマによる支配も、世界情勢も、全ての状況は神様の支配の下にあるものですから、尊重すべきだと思います。その中で神様の思いを中心として生きることは可能だと思います。それは決して特定の宗教的立場や考えを主張することではないと思います。