宗教教育ではありません
それは宗教教育のことではなく、大人の言うことに従うこと、嘘をつかないこと、自分のことばかりではなく友達の事を思いやること、自分の間違いを素直に認めて謝ること、などを子供に身に付けさせること、それが神様を中心にすることだとお伝えしています。
中心がずれていると問題が起こる
中心がずれていると問題が起こると思います。神様を中心にするなら、子供達の人生もまた幸いな人生になると思います。幼いうちから神様を中心にすること、神様のことを思うこと、神様の願いを求めることを教えることによって、子供は幸せになり、世界も幸せになると思います。
ただ守れば良いということ以上のこと
ただ、従順、誠実、思いやり、謙遜を守れば良いということではなく(もちろん、それだけでも素晴らしいと思いますが)、いつも神様を意識させること、神様の願いは何かということに思いを向けさせ、だから従順、誠実、思いやり、謙遜などが大切だと教えると良いと思います。
子供の自立とは
やがては子供自ら何が神様の喜ばれることなのかを考え、自らそのような生き方をすることができるようにすることが目標です。ずっと親が、これが神様に喜ばれることだ、あれがそうだと教え続けることではできないと思います。自立とは子供が自分で神様の思いを見極めて生きることができるようになることを意味していると私は思います。
幼児も神様が分かる
私の経験では、これは単なる子供を誘導するための手段ではありません。不思議なことですが、2歳、3歳の幼児でも神様が分かります。神様は決して難しい神学でも哲学でもないということを思わされます。子供に「神様はそれを喜びますか」と語りかけていただきたいと思います。子供は自分の良心でそれを判断できると思います。
親が怖いからではない
ですから、親が怖いからという理由になってはいけないと思います。もちろん、子供が神様の願いに反する悪いこと(たとえば嘘をつくなど)をした時、穏やかに「神様はそれを喜びますか」と語りかけても、子供は恐れるでしょう。でも、それは親が怖いからではなく、悪いことをしたことに対する恐れであるべきだと思います。怖い顔をしたり、冷たい態度を取ったりしないで、厳粛に子供の良心に向き合っていただきたいと思います。
幼い時から神様を中心にする
このように、幼い時から子供が神様を意識し、神様の前に正しく生きることができるように教え導くことが大切ではないかと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、親である私たち自身がまず神様を中心とした生活を身に付けましょう。
新約聖書 ルカの福音書23章50~56節
さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。
ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、
りっぱな、正しい人
ユダヤ議会の中にはイエスを殺すことに同意していない議員もいたことが分かります。ヨセフと名前も記録されています。彼は「神の国を待ち望んでいた」とあります。つまり、結論ありきの人ではなく、本当に神様を中心とする生活を求めていたということだと思います。確かにりっぱな、正しい人とはこういう人のことを言うのだろうと思います。
それは確かな事実であった
この人がイエスのからだを十字架から降ろし、岩に掘られた墓に納めました。ガリラヤからずっとイエスと一緒に来た女たちがその様子をつぶさに見ていた。つまり、確かにイエスは墓に葬られた。目撃者もあったということだと思います。
それは金曜日の午後6時前頃の出来事であった
もう安息日が始まろうとしていた。ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、ユダヤの一日は午前零時から始まるのではなく、前日の午後6時から始まりますので、それは金曜日の夕方であり、間もなく安息日が始まろうという時間であったということだと思います。
沈黙の安息日
イエスのからだを墓に納めると、人々はそれぞれ帰り、土曜日は一日、安息日を過ごしたということだと思います。イエスは確かに十字架に死に、墓に葬られたということをこの記録は伝えているのだと思います。