「キリスト教、宗教理解へのアプローチ」というサイトの「宗教を問い直す:宗教の正の遺産と未来」という記事を読みました。共感する部分が多かったので、一部を抜粋してご紹介させていただきます。宗教にはマイナス面もあるが、プラス面もあると言っています。
物質だけでは虚しい
経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、空虚感に悩む人の数が増える傾向がみられる。・・・財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いないと思い込み、ひたすら頑張って働いたが、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けているという気がして、人生の虚しさを痛感する人が多い。
学問や科学にその答えはない
マックス・ウェーバー(ドイツの社会学者・経済学者)は「何故生きるのかの問いは、自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いで、学問や科学はこの問いに対する解答を与えてはくれない」と言う。
宗教のプラス面
「宗教とは現世において満たされない欲求を埋め合わすもので、代償と自己防衛の役割を果たすものに過ぎない」と考える人も多いが、もしそうだとすれば、現実の苦悩の原因が取り除かれれば宗教は必要でなくなる事になるが、実際はそうではない。・・・宗教は単なる思想や理想をこえて、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し、物の見方のみならず、見え方まで変え、世界に対する意味づけまで変える。
宗教の存在意義は大きい
宗教の果たしうるもっとも本質的な役割は、人格に新しい統合を与え、意味感、すなわち生きがい感を与える。・・・科学や学問とは異なり、宗教は生きる意味と目的を与えている事は確かであり、その存在意義は大きい。
宗教の普遍性
宗教団体は別にして、宗教性そのものは必要だと考える人は多い。ジョン・デューイ(アメリカの哲学者)は、因習化・形骸化した伝統宗教に代わって、一人ひとりの人間が、心の中で社会的人類的な理想に目覚めて生きる事こそ、宗教的な事だと述べている。
普遍宗教の必要性
もはや特定の宗教は必要としない時代に入っているという方も多い。誰もが宗教とは思わない普遍宗教一つあれば良いという方も多くなった。しかし、それさえも否定するならば、人間はエコノミック・アニマルになってしまう。超越した存在(神、超越者、すべてを支配する超越する存在)を想定しない場合、人が人を支配する競争原理の中で生きるだろう。(サイトからの引用は以上です。)
神様を中心とした日本人の生き方こそ
まだ、ご紹介したい内容が続きますが、今日は字数が尽きましたので、またの機会にしたいと思います。「日本人の信仰と聖書について考える会」では特定の宗教を信じるのではなく、神様を中心として生きる日本人の生き方を提案していますが、この方の言っていることと大変重なる部分が多いと感じました。
子供にも分かる話だと思います
それは難しい話ではありません。子供でも分かる話だと思います。神様の願いや思いに従って生きること、それが私たちの人生に意義を与えると思います。それを「宗教」と呼ぶのであれば、それは言葉の定義の問題ですが、特に日本人にとっては何か特定の宗教を信仰することではないと私は思っています。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。
新約聖書 使徒の働き 5章1~11節
ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われて、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」 彼女は「はい。その値段です」と言った。
そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
もう、こんな問題が起こってしまいました
単にユダヤ教の生活をするのではなく、生きて働いている神様を中心として生きる喜びを知った人々は個人的な財産を放棄して共同生活を始めました。神様を中心として生きるインパクトはそれほど強かったということだと思いますが、一方で私有財産を放棄した共同生活が神様を中心とすることだと誤解すれば、このような悲しい問題も起こり得ると思います。しかし、これが人間の現実であると私は思っています。
グループの弊害
問題は、その代金の一部を残しておいたということではありません。人を欺き、神を欺いて、これが全額だと言ったことだと思います。人間が集まる所、このような問題はつきものではないでしょうか。大切なことは何かのグループに所属することではなく、神様を中心として生きることだということを忘れないで欲しいと思います。
目的と手段が混乱すれば問題が生じます
もちろん、それが神様を中心として生きる励みになるなら、グループに所属することも、何かの宗教を信仰することもメリットはありますが、人間のすることにはデメリットも伴うと思います。目的と手段を明確に区別しなければなりません。目的は神様を中心とすることです。それは個人的な生き方の問題であって、必ずしもグループを形成することではないと思います。