神様を中心とした生き方を提案しています
そこに全ての問題の解決があるということを実感していただきたいと願っています。また、それが人間本来の生き方であり、日本人が世界に示したい姿だと思っています。
神様を中心とした生き方とは
それは単に神棚を作りましょうとか、もっとお墓参りをしましょうとか、神社の祭礼や参拝を中心とした生活をしましょうということではありません。それは良い事だと思いますが、神様を意識する手段であって、目的ではないと思います。
ご利益的な面だけでなく
一般的に日本人は神社に参拝したから大丈夫とか、お守りを持っているから災いを避けられるといった、信仰のご利益的な面は意識していますが、(もちろん、災いを恐れ、不安な毎日を送るより、神様の守りに信頼して、平安な生活をすることは良い事だと思いますが、)実際生活の判断、言動において、自分の感情や自分の願いばかりを中心にするのではなく、どれだけ神様の思いや願いを中心にしているでしょうか。
神様の願いに従う生き方
神様を中心とした生き方には色々な側面があると思いますが、ご利益的な面だけを考えているなら、依然としてその生き方は自己中心的だと言わざるを得ないと思います。神様は決して私たちの願いを叶えるためだけの召使いのような存在ではありません。私たちこそ自己中心的な考えを脇に置いて、神様の願いを求めて、それに従う生き方を志すことが大切だと思います。
自己中心は程度の問題ではなく方向性の問題
物事が自分の思うように進まない時、感情的になってしまった時に、自分の思いではなく、神様の願いや計画は何かと考えるべきではないでしょうか。もちろん試練や困難の時だけでなく、いつも神様の願いや計画は何かと考えるべきだと思います。そのために毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。
神様の願いは私たちの願いより素晴らしい
しかし、毎日聖書を読んでお祈りすることに何か神秘的な力があって、ご利益があるということを言いたいのではありません。神様は私たちがお祈りしなくても、聖書を読まなくても、神棚がなくても、神社に参拝しなくても、いつも私たちを守ってくださっています。その神様をもっと意識することができるように、自分の願いではなく、この素晴らしい神様の願いを中心にすることこそ、結局は自分の幸せであり、それが世界の幸せに繋がるということを深く知るために毎日神様に祈り、聖書を読むことは有益だとお勧めしているのです。
神秘的なことではありません
神様を中心とした生き方とは、また神秘的な生き方のことでもありません。宇宙と調和するとか交信するとか、そういうことでもありません。理性と良心を働かせて、何が正しいことであるのか、何が神様に喜ばれることなのかを判断することです。そこに全ての問題の解決も、幸いな人生の秘訣もあるということをお伝えしたいのです。
それでは今日も聖書の続きを読んで、神様の願いや思いに心を向けましょう。
新約聖書 使徒の働き 4章32~37節
信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
神様を中心にすることを知った人たち
「信じた者」とは、イエスの十字架と復活を信じたということだと思います。言い換えれば、神様が実際に生きて働いていることを知ったということだと思います。彼らは皆ユダヤ人で、ユダヤ教徒であったと思います。ユダヤ教を止めたとか、新しい宗教を始めたということではなく、生きて働いておられる神様を知って、本当に神様を中心とした生き方を始めたということだと思います。
神様の力を知った人たち
それは、単にそれまでのユダヤ教の慣習に従った生活とは違うと感じたのかもしれません。彼らはイエスの12使徒を中心に、個人的な財産を放棄して共有にし、共同生活を始めたようです。神様を中心とした生き方は、それ以前のユダヤ教の生き方と較べて、それ程のインパクトを彼らに実感させたということなのかもしれません。
それが唯一絶対ではないと思います
もちろん、それが神様を中心とした唯一の生き方だと私は思いません。でも、生きて働いておられる神様を中心にして生きようとするなら、何か具体的な行動の変化というものが現れて来ることも事実だと思います。彼らの中には他国からエルサレムに来ている人々もいた様ですので、もしかしたら、そういう状況の中で共同生活という、それ以前の既成概念を超える発想が出て来たのかもしれません。
超常識的な生き方も
非常識はいけませんが、それまでの既成概念に囚われない超常識的な生き方が、神様を中心にすると出て来るかもしれません。大切なことは自分の考えに囚われずに、神様の願いや思いを中心にすることだと思います。私自身、神様の願いを中心にすることによって、ずいぶん自分の思いを超える人生を歩んで来たことを思います。
自分で設けた制限を超える
結構、私たちは自分でこれは無理だと制限を設けて小さくなっているのではないでしょうか。私たちは本来もっと大きな可能性を持つ者としてこの世界に生まれて来たのではないでしょうか。自分を中心にすると自分で自分を制限してしまいますが、神様を中心にするなら、その制限が取り払われて、与えられている可能性を大いに発揮する人生を生きることができるようになると思います。神様を中心とした生き方をしましょう。