先週に引き続き「日本と日本人の文化」からご紹介いたします。「仕方がない」という日本人の精神について、興味深い内容が書かれていましたので、まずこちらをお読みください。
仕方がない
「仕方がない」という言葉は、以前からアメリカの作家や学者たちによって使われてきた日本語の一つです。
但し、非常にネガティブな意味で使われることが多かったようです。
日本人における「仕方がない」という言葉は、「諦めが早い」「主張が足りずに弱腰」を示すような意味合いを含むと言われてきたのです。
ところが震災後、「仕方がない」という言葉は、海外メディアでポジティブな意味で報道されるようになりました。
英語版ウィキペディアで調べると、「仕方がない」とは、「想像を絶する、何者も太刀打ちできない状況に直面しているときに日本人が見せる尊厳、日本人の能力」と記されています。
震災で家屋を失い、全てを海にさらわれてしまったら、そこでどうあがいても、何も戻ってこないのです。
そこでパニックになり、何とかしようとしても、結局何もできません。
ただ状況を受け入れ、次に進むしかないのです。
「仕方がない」とは、一つの太刀打ちできない状況を乗り越えるための「区切り」の手段だと思われます。
私たちは震災直後、全てを「仕方がない」という考えで割り切って現実を受け入れ、「仕切り直し」をしたのではないでしょうか。
「仕方がない」という言葉は、このように、諸外国ではかつてネガティブにしか受け止められていませんでしたが、震災後に、皮肉にも「日本人の素晴らしい精神の一つ」といわれ、賞賛されたのです。(サイトからの引用は以上です。)
それは現実を受け入れる力
人間にはどうすることも出来ないことがあります。そのような現実を受け入れることが出来なければ、決して前に進むことができません。大切なことは現実を受け入れる力だと思います。私たち日本人は太古の昔から「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」ことを知っていたのだと思います。また、それが人格的な成熟でもあると考えていると思います。
不条理をも受け入れる
人間の目から見るなら、やはりこの世の中には理解できないこと、不条理なことがあると思います。公平で公正な世界の実現に向けて努力を怠ってはならないと思いますが、不条理を嘆いているだけでは何も変わらないことも事実だと思います。それでも全ては人間の思いを超えた神様が支配しておられる。人間を中心にするのではなく、神様を中心にして、私たち日本人は現実を受け入れ、乗り越えて来たのだと思います。
このような日本人の生き方を全世界に示したいと私は思います。世界は神様を中心に回っているということを私たち日本人の生き様を通して全世界に示そうではありませんか。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 9章19~25節
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。
「この人はエルサレムで、この御名(みな)を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。
そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。
ただちに教え始めたサウロ
イエスが神の子であるということが分かったサウロはただちにユダヤ教の諸会堂で教え始めました。人々は驚きました。でも、サウロはますますイエスこそ太古の昔から言い伝えられてきたキリスト(メシヤ、神様から特別に油注がれた者)であることを証明したとあります。彼は律法の専門家でしたから、旧約聖書からそのことを証明したのかもしれません。
サウロはますます力を増した
しかし、それを受け入れないユダヤ人たちからは憎まれ、暗殺の計画まで立てられたようです。それでも、単にユダヤ教という宗教の慣習に従った生活ではなく、本当に神様の願いや思いを中心に生きるところに人生の意義も目的も喜びも命もあるということが分かったら、それを黙っていることはできないだろうと思います。
彼の弟子たち
この時、すでにサウロには弟子たちがいたようです。それはサウロの言葉を受け入れて、神様を中心にして生きる喜びを知った弟子たちがいたということではないかと思います。
人々の不安
神様を中心にした生き方とは、決してユダヤ教の慣習を変えるものでも、また日本人の慣習を変えるものでもないと思います。でも、人はそのような不安を感じるものなのかもしれません。しかし、私は神様を中心にすることによって、むしろユダヤ人が大切にしてきたもの、日本人が大切にしてきたものを、益々大切にすることになると思っています。