黒船のペリー提督も知っていた日本人の優秀性

今日は日本人の優秀性を示す記事を2つご紹介いたします。1つは日本に開国を迫るために来航したペリー提督の言葉です。

農民でさえ文字が読めた日本人

1853年、日本に開国を迫るために来航したペリー提督は、来日以前に、日本が世界中のどの国民よりも教育が行き届き、どんな貧しい農民でさえも文字が読める事を知っていたという。事実、100万人都市江戸には、私塾の寺子屋が1,500あったという。ちなみに平成28年度の都内公立小学校数1,280校と比較すれば、それがどれほどすごい数字であるかを理解することができるのではないだろうか。

ペリー提督は日本について詳しく調べた

ペリー自身、神功皇后(じんぐうこうごう)や尼将軍政子(あましょうぐんまさこ)を研究するなど、日本の歴史もよく勉強し、日本人の情報収集を怠らなかったという。ペリー提督は日本を「エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的と言うよりはヨーロッパ的。名誉を重んじる騎士道精神を持ち、他のアジア諸国とは全く異なる。アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は名誉と信義を基本としている。支那に隷属することなく、外国に侵略されたり植民地にされたりしたことがなく、日本は東洋におけるイギリスになることだろう。」と評価している。

日本の皇室に尊敬を寄せるサウジの王族

もう一つは2009年までの3年間、駐サウジ大使を務めた中村滋氏の言葉です。中村氏は「サウジの王族は日本の皇室に尊敬と強い関心を寄せている」と指摘しています。アブドラ国王(在位2005年8月~2015年1月)が日本からの要人に会う際、中村大使は必ず陪席したそうですが、国王の最初の発言は決まって「天皇陛下はお元気でおられるか」という質問で始まったと言います。

華美や贅(ぜい)から一線を画した精神性の高さ

アラブ王室の皇室に対するこの尊敬の念はどこから来ているのでしょうか。中村氏は3点を挙げています。第1は、日本の皇室が万世一系の世界でも珍しい長い歴史と伝統を保持していること。第2に、皇室が日本国民の幅広い尊敬と支持を集めていて、「自分たちもこうありたい」という願望。第3に、華美や贅から一線を画した精神性の高さ。

イスラエル系渡来人の影響

このような日本人の優秀性はいったいどこから来たものなのでしょうか。私は古代日本にあったイスラエル系渡来人の影響を否定することができないと思っています。それは神様を中心とした生活によってもたらされた信仰と文明だと思います。そのような日本人の優秀性を失うことがないように、それを正しく自覚し、神様に思いを向けた生活をして欲しいと願っています。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 使徒の働き 3章1~11節

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。

祈りのために宮に上った

まず注目したいことは、ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上ったと記されていることです。彼らはイエスが本当に人となった神様だと分かったからと言って、決して新しい宗教を始めた訳ではないようです。宮とはユダヤ教の神殿であり、彼らは依然としてユダヤ教徒であったということが分かります。

宗教でも国籍でもなく

私たち日本人もイエスを人となった神様として受け入れ、神様を中心とした生活をするからと言って、何か新しい宗教を始める必要はないと思います。大切なことは、どこの国の人であったとしても、その宗教が何であったとしても、神様を中心とした生活をすることだと思います。

神様の名前によって歩きなさい

それから、もう一つ。金銀を求めた男に、金銀ではなく「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、右手を取って立たせたという記述です。するとこの男の足が強くなって、立ち上がるだけでなく、はねたりしたと書かれています。文字通りのことが起こったとすれば、それは神様の超自然的な癒しが起こったということだと思います。

超自然的な出来事もあり得る

生活して行くには金銀も必要だと思いますが、金銀があれば良いということではないと思います。神様を中心とすることが不可欠だと思います。ペテロは神様を中心にしたらどうでしょうかなどとは言わないで、神様の名前によって歩けと言ったところが凄いですね。超自然的な出来事を体験することもあり得ると私は思っています。