「古事記」、「日本書紀」にある旧約聖書の預言者イザヤの痕跡

日本にある旧約の預言者イザヤの痕跡

旧約聖書の中に「イザヤ書」と呼ばれる書があります。イザヤは、北イスラエル、南ユダ崩壊の時期のイスラエルの預言者です。多くの北イスラエル、南ユダの人々がイザヤの預言によって、東の果て、日本を目指したのではないかと考えられます。以下、その痕跡を「古事記」、「日本書紀」の中に見出すことができると坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」の中に書かれていますのでご紹介いたします。

伊雑宮(いざわのみや)

伊勢神宮に行くと「伊雑宮(いざわのみや)」と呼ばれる宮がある。『大言海』によると、イザヤという言葉は「イザワ」と同じ、と書かれている。つまり伊勢神宮と・・・預言者イザヤには何らかの繋がりがあったと考えられる。

八咫烏(やたがらす)

また、『日本書紀』には神武天皇が大和を平定した際、八咫烏(やたがらす)がエシキとオトシキのもとに遣わされ、「天神の子、汝を召す、イザワ、イザワ」と鳴いたと書いてある。これはつまり、神武天皇とイザワ、つまりイザヤとの間に何かしらの関係があったと考えられるのだ。

イザナギ、イザナミ

『古事記』と『日本書紀』に登場する、イザナギ、イザナミという男女の神様の名前もイザヤの名前に由来しているようだ。・・・イザヤとはヘブライ語で「神の救い」を意味する「イシャヤウ」である。「イシャ」とは「救い」という意味である。それが訛って日本語では「イサ」となった。またイザナギの「ナギ」は、ヘブライ語では王子様の意味の「ナギッド」である。

国生みの物語

『古事記』ではイザナギはイザナミを伴って日本に下り、日本の島々を生み出したという不思議な神話が描かれている。これは預言者イザヤたちが海を渡って日本に渡来し、国づくりをしていく様子を表したものだ、という研究者もいるのだ。

ユダヤ人による国造りの記録

もしもこれまで見てきたように、イザヤの子がイザナギであるならば、『古事記』や『日本書紀』に描かれている神話は、自分たちの神を礼拝できる東の島国を求めてやってきた、イスラエル人たちの苦闘の体験が織り込まれた神話ということができる。(本からの引用は以上。)

ユダヤ人の影響

いかがでしょうか。日本人とユダヤ人の不思議な類似性はこのことによって説明がつくのではないかと思います。その後の長い歴史の中で、日本独自に変化した部分ももちろんあるだろうと思います。しかし、日本人の文化、伝統、信仰、価値観などは聖書の民であるイスラエルの人々の影響を大きく受けていると考えられます。

神様に思いを向けましょう

大切なことは表面的な類似性や形式ではなく、その背後にある神様に思いを向けることだと思います。そこに全ての問題の解決と幸いな人生があることを知って欲しいと願っています。それは聖書に記されている神様です。今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けてください。

新約聖書 使徒の働き 2章37~47節

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

どんな問題にも解決はあります

「神様が送ってくださったイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」というペテロの言葉に心を刺され、人々は「どうしたらよいのでしょうか」と言いました。弁解するのではなく、このような態度を取ることはとても大事なことではないでしょうか。そこに解決があります。

悔い改める

ペテロは「悔い改めなさい」と言いました。「悔い改める」とは単に反省するとか、後悔するということではなく、方向を変えるとか、中心を変えるという意味です。今までの中心は間違っていたことを正直に認めて、正しいこと、本当のこと、つまり神様を中心にすることを意味していると思います。

罪の赦しを受け止める

ペテロは「罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」とも言いました。「罪」とは必ずしも犯罪のことではなく、中心が間違った生活のことを言っています。本当のことが分かった時、私たちが感じるのは、これまでの間違った生活はどうしたら良いのだろうかということではないでしょうか。そこには「赦し」が必要だと思います。それが十字架です。人となった神様がそんな私たちの身代わりとなって十字架上でその罰を受けてくださった。「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」とは、それは自分のためであったと、その赦しを受け止めるということだと思います。

神様を中心とした生活

「バプテスマ」とは実際に水の中に浸る儀礼ですが、当時のイスラエルの人々はそうやってそれ以前の生き方を洗い清め、新しく弟子入りしたようです。その日、三千人ほどが弟子に加わったと書かれています。それは「曲がった時代からの救い」と表現されています。当時のイスラエルも、また今の日本も中心がずれてはいないでしょうか。神様を中心とすることによって、そこから救われるということだと思います。そういうグループがユダヤ人の中に新たに生まれたのだと思います。私たちも神様を中心にしましょう。