それに勝るものはない
子供の幸せな生涯のために、神様を中心としたライフスタイルを身に付けさせることが有益だと提案しています。もちろん、子供だけではなく大人にとっても大切なことですが、その意義を知れば知るほど、子供のうちから身に付けさせてあげられるなら、それに勝るものはないと思います。
宗教教育ではありません
まず知っていただきたいことは、それはキリスト教の教育をするとか、何かの宗教的な教えを身に付けさせるということではないということです。神様を中心としたライフスタイルとはそういうことではありません。もちろん、宗教教育を否定している訳ではありませんが、私が提案しているのは宗教教育ではないということです。
ご利益信仰ではありません
「神様」という言葉を持ち出すと、ご利益とか無責任な他力本願と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私が提案しているのはそういうことでもありません。神様を中心とするというのは、単なる自分の欲求を中心とするのではなく、何が正しいことなのか良心に感じる事を中心とした生活をするということです。
子供の良心と向き合う
お父さんとお母さんを敬い、その言う事に聞き従うことは良い事であり、神様に喜ばれることだと教え、実際にそれが出来た時には褒め、出来ていない時には、「それは良い事ですか、神様に喜ばれることですか」と子供の良心と向き合うことによって、幼い時から子供に神様を中心とした生活をするように、また出来るように親が関わってあげることがとても有益なことだと提案しております。
「神様のかたち」としての子供
どんなに小さな子供でも、他の動物とは違って、人間には「神様のかたち」があり、生まれながらに良心が与えられていると思います。誰に教えられなくても、子供は神様が分かります。それは決して特定の宗教の神様ではないと私は思います。でも、何が正しいことで、神様に喜ばれることなのかということを教育しなければ、子供の良心はだんだん麻痺してしまって、やがて分からなくなってしまうと思います。
親自身の生き様
神様を中心とした生活とは、ご利益でも宗教でもなく、ライフスタイルであるということをご理解いただけましたでしょうか。それは人間としての尊厳を持った生き方であり、人生の目的も喜びも幸せもそのような生き方にこそあると私は思います。それは単なるハウツーではありませんし、マニュアルにすることもできないと思います。親自身の生き様だと思います。
親の所有物ではない
子供を親の所有物としてではなく、神様からお預かりした「神様のかたち」を持つ尊い存在として、神様の子供にふさわしく教育したいと思います。やがては神様にお返しする日が来ることを忘れないで、でも、神様から委ねられた責任を自覚して、日々、子供の良心と向き合うかけがえのない日々を今日も重ねてください。神様の守りと祝福をお祈りしております。
それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。
新約聖書 使徒の働き 2章1~13節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。
五旬節
「五旬節」とは「七週の祭」とも呼ばれるユダヤ教の三大祭の一つです。イエスが十字架につけられた「過越祭」の50日目に行われます。イエスは十字架の3日目によみがえって40日間、弟子たちにその姿を示されて、天に上げられたとありますので、その1週間後の出来事であったと考えられます。
神様の霊による超自然的な出来事
ここに記されている出来事が文字通り起こったと考えるのであれば、それは超自然的な出来事であったと思います。この記録から分かることは、過越祭から五旬節の間、諸外国に住んでいたユダヤ人たちが大勢エルサレムに滞在していたということでしょう。彼らの話す言葉はそれぞれ違っていたことも分かります。この春の祭の時期には、神の都、神殿のあるエルサレムに集まっていたのでしょう。
知っているはずのない外国語を話す
驚くべきことには、イエスの弟子たちは話すことのできないはずの、それぞれの国の言葉を話したということです。酔っているとあざける者もいたとありますが、でたらめではありません。理解できる言葉をそれぞれ話していたということです。
「神の大きなみわざ」を聞く
大切なことはその内容だと私は思います。彼らは単なるおしゃべりを始めたのではなく、「神の大きなみわざ」を語ったのであり、諸外国から集まっていた人々は、それぞれ自分の国の言葉で語られるので、それを理解できたということです。
神様に思いを向ける
全世界の人々が、その話す言葉が何であったとしても、神様の大きなみわざについて聞き、神様に思いを向けた。それが神様の霊によってもたらされた出来事だったということではないでしょうか。それは神様が願われていることだということではないでしょうか。毎日、時間を決めて神様に思いを向け、そして祈る。それは知識ではありません。大切なことは神様を思い、神様を中心にして生きるライフスタイルだと思います。